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仙之助編 八の一から八の十二まで

仙之助編 八の一

 クレマチス号がオホーツク海で仕留めた二頭目の鯨はホッキョククジラだった。

 最初に仕留めたマッコウクジラよりひとまわり大きく、操舵手たちは命がけの格闘を繰り広げ、あやうく海に落ちそうになった者もいた。

 解体するのにも骨が折れた。脂のたっぷりのった皮を剥ぎ、鉄鍋で煮込む作業も時間がかかったが、たくさんの鯨油が取れる大きな鯨を獲得して、船上は浮き立った。

 仙之助は鯨油を煮溶かす匂いにだいぶ慣れた。脂まみれの重労働も捕鯨船で一人前の仕事ができるようになった喜びが勝っていた。

 鯨油にする作業が一段落した頃、暦が八月になっていた。

 夜の時間が少しずつ長くなる。晴れて太陽が照りつければ、気温は上がるが、日が陰れば一気に寒くなる。オホーツク海の短い夏が終わろうとしていた。

 デッキの大掃除があった日の午後遅く、急に風が強まった。

 氷粒のような雨を含んだ冷たい風だった。

 波も急に高くなった。複雑な波が右に左に船体を翻弄する。

 クレマチス号は、カムチャッカ半島の東海岸を航行していた。

 補給のため立ち寄る予定だったペドロパブロフスク・カムチャッキーの港は、まだだいぶ南下しなければならない。江戸湾と同じく大きな湾の奥にある天然の良港なのだが、船長のダニエルはそこまで船を進めるのは危険と判断した。

 めざしたのはペドロパブロフスク・カムチャスキーの北に突き出した小さな半島の根元にあるモロゾバヤ湾だった。以前、ダニエルはそこで風待ちをした経験があった。

 操船をする乗組員を除いて、仙之助たちはキャビンに入るよう指示が出た。

 冷たい海に落下したら、たちまちのうちに体温を奪われて死に至る。オホーツク海が南の海より危険なのは、変わりやすい天候だけでなく、その冷たい水なのだとダニエルは言った。

 ギギギー、ギギギー。

 不気味な風の音と共に船体のきしむ音がする。

 振り子を揺らすように右に左に船体が揺れる。

 ザッブーン、ザッブーン。

 デッキに押し寄せる大波の砕ける音も聞こえる。

 仙之助は、ユージン・ヴァン・リードから聞いた遭難の話を思い出していた。ハワイに到着できないまま、ここで命がつきるのだろうか。ヴァン・リードは南の海だったから座礁しても生還できたが、この北の海では助かる見込みはない。不安が波のように押し寄せる。
「仙太郎さん、守ってください」

 咄嗟に祈ったのは神仏ではなく、亡き仙太郎に対してだった。

 仙之助のあわせた両手を包み込むように掴んだ大きく分厚い手があった。ラニだった。
「ジョンセン、大丈夫だ」

 次の瞬間、船体が大きく傾いた。

 

仙之助編 八の二

 ギギギー、ギギギギー。

 ギギギー。

 仙之助たちは、斜めに傾いた船室で床に置いた荷物と共にずるずると体をもてあそばれていた。船体のきしむ音はいよいよ大きくなり、もう駄目かと思った瞬間、ふいに体が宙に浮いたような感じになった。

 ドスンと床に体を打ち付けられて、気づくと船室の床が水平になっていた。

 ぴたりと揺れが収まっていた。

 クレマチス号はモロゾバヤ湾に入ったのだった。

 ダニエル船長からようやく許しが出て、仙之助たちは甲板に出た。

 目の前に荒涼とした海岸線が広がっていた。

 砂浜ではなく、ゴロゴロとした石の転がった浜で、茶色い草のようなものが波打ち際に沿って見える。その形状から昆布であることを仙之助は見て取った。

 その先には背の低い草が一面に生えていて、ビュービューと風になびいている。

 もう少し近づいて上陸できないものかと仙之助は期待したが、ダニエルの判断は慎重だった。うっかり近づいて座礁しては元も子もない。腕利きの船長である彼にとっても、限られた情報しかない湾だった。

 夕方近くになって、低く垂れ込めた厚い雲の間から太陽が顔を覗かせた。

 まもなくまばゆいばかりの夕陽が空と海をオレンジ色に染めた。オホーツク海の自然は厳しいぶんだけ美しい。日が沈むと満天の星空だった。

 クレマチス号は一晩湾内に留まって、翌朝早く出帆した。

 波は穏やかになり、程よく吹く風が帆船をなめらかに進ませる。嵐の一夜はオホーツク海に夏の終わりを告げるものだったのか、日差しにも秋の気配が感じられた。

 再び船の揺れがぴたりと止まった。大きな湾に入ったのだった。

 クレマチス号は静かにペドロパブロフスク・カムチャスキーの港をめざした。

 大きな港に入るのは函館以来のことだった。

 仙之助が目を見張ったのは、前方にまるで富士山としか思えない円錐形の美しい山がそびえていたことだ。
「フジヤマによく似ているだろう。故郷が恋しいか」

 ダニエル船長が仙之助に言った。
「いえ、恋しくはありません。これは何という山ですか」
「ロシア語でアバチャ山と呼ぶ。このアバチャ湾と同じ名前だ」
「美しい山は、みな富士山のような姿をしているのですね」
「ハハハ、そうかもしれんな」

 山の姿は富士山によく似ていたが、目の前に広がるのは横浜や江戸とは全く異なる針葉樹の森と見慣れない異国の街並みだった。

ペドロパブロフスク・カムチャスキーの港の風景
仙之助編 八の三

「さあ、ペドロパブロフスク・カムチャスキーに到着するぞ」 

 甲板の上がにわかに慌ただしくなり、乗組員たちは船を係留するためのロープの準備に慌ただしかった。仙之助には耳慣れない地名をダニエルがすらすらと口にするのは、横浜がそうであるように、船乗りには馴染みのある港なのだろう。
「この港の名前もロシア語ですか、ペドロパブ……、ええと、カムチャ……」
「ハハハハ、ロシア語の名前は覚えにくいな」

 ダニエルは笑いながら答えた。
「ペドロとは英語のPeter、パブロとはPaulのロシア語読みだ」
「PeterとPaulはわかります。人の名前です」
「St. Peter、St. Paulになると……」
「セント……」
「キリスト教の聖人の名前になる」
「St. PeterとSt. Paul、聖人の名前を冠した二隻の船がこの港を発見して、名づけたと聞いた。カムチャスキーとは……」
「カムチャッカのことですね。鯨の漁場、カムチャッカ・グラウンドの」
「そして、この半島の名前でもある」
「カムチャッカは島ではないのですね」
「大陸から続く半島で、島ではない。だが、土地に暮らす人々は彼らの言葉で島と呼ぶ」

 命名の由来を聞くと、呪文のような地名もすっと頭に入ってくる。
「ペドロパブロフスク……、カムチャスキー」

 仙之助は、生まれて初めて見た異国の港の名前を忘れまいと何度もつぶやいた。

 港を発見したとされる二隻の船とは、十八世紀、ピョートル大帝の時代の探検船だった。ロシア語を冠された港は、その後、探検基地となり、ロシアはユーラシア大陸と北アメリカ大陸が陸続きでないことを確認し、アリューシャン列島を発見した。

 もっとも発見と言っても、欧米列強によるあらゆる地理的発見がそうだったように、それぞれの土地には先住民がいた。千島列島にはアイヌ民族が暮らしていたように、カムチャッカにはコリヤークと呼ばれる先住民がいて、海岸に住むコリヤークは海で漁をし、内陸のコリヤークはトナカイの遊牧で生計を立てていた。

 探検家の次には毛皮商人がやってきた。

 ペドロパブロフスク・カムチャスキーが周辺を航行する船にとって重要だったのは、天然の良港であると共に不凍港だったからだ。高緯度にある北の海は冬になると氷で閉ざされる。冬でも凍らない港は人の往来を一年中可能にした。

 毛皮商人の次にやって来たのが捕鯨船である。

 クレマチス号は入港すると、ハワイまでの航海に必要な水や食料をたっぷり積み込んだ。乗組員は上陸を許されたが、旅券を持たない仙之助はダニエルの判断で船に留め置かれた。

仙之助編 八の四

 函館では入港している間、仙之助は甲板に出ることも禁じられた。

 日本人が異国の捕鯨船に乗っていることを松前藩の役人にとがめられることを恐れたのだった。だが、ペドロパブロフスク・カムチャスキーでは、ダニエルはそれほど厳しく仙之助を制しなかった。夏の航海でたくましく日焼けをし、アザラシの皮の頭巾を被った仙之助は、どこから見てもカムチャッカの先住民コリヤークだとダニエルは笑った。
「カムチャッカに住む人は蝦夷のアイヌとは違うのですか」
「似ているところもあるが、別の名前で呼ばれるのだから、別の民族なのだろう。コリヤーク人は歌と踊りが好きで、何時間も続けて踊る。一度だけ、彼らの村で見たことがある。アザラシの皮を張った平たい太鼓を打ちながら躍るんだ」

 ダニエルは独特なフレーズを口ずさみ始めた。
「アイヤー、アイヤ。アイヤー、アイヤ」
「コリヤークの歌ですか」
「そうだ。長いこと聞いていて覚えてしまった。お前の国の歌に似ているか」
「いえ、似ていません」
「そうか。アイヌの歌は似ているらしい」
「アイヌの歌も聴いたことがあるのですか」
「函館のアイヌの村で聞いたことのある乗組員がいて、似ていると言っていた。着ている服は違ったそうだが」
「私のこの服は……」

アザラシ皮の上着

「その時、コリヤーク人から手に入れたものだ。お前くらいの年格好の、お前のように賢い少年だった。たった一人で私に近づいてきて、身振り手振りで私たちの船にあるものと交換してくれと頼んできた」
「何と交換したのですか」
「私の持っていたナイフと交換した。ジョンセン、本当にあの少年に似ているな」

 ダニエルは再びそう言って笑った。

 上陸こそ許されなかったが、仙之助はクレマチス号の甲板から、生まれて初めて見る異国の港に見入っていた。

 異人の姿は横浜でも見慣れていた。ロシア人は話す言葉は違うが、見た目はアメリカやイギリスの異人たちと変わらない。もっとも、北の港町では、冷たい風をしのぐ頭巾付きの上着を着ている者が多く、遠目からでは異人なのか、コリヤーク人なのかもわからなかった。

 遠い国に来たことを感じさせるのは、異人館の背後に広がる針葉樹の森だった。

 松や楠木の多い横浜界隈とは明らかに異なる風景だった。

 こんな時、日本語で感動を共有できる相手がいたら、どんなに心強かったことだろう。

 困難に遭遇した時もそうだが、異国に来た感慨にふけることの出来る時間があると、やはり思い出すのは亡き仙太郎のことだった。

仙之助編 八の五

 ペドロパブロフスク・カムチャスキーの港に二昼夜停泊した後、三日目の朝早く、クレマチス号は碇を上げて出航した。

 出航してまもなく、仙之助は、上級船員のいる船室に招き入れられた。

 ダニエルは、仙之助に目をかけてくれたが、親しく話をするのは、たいてい甲板だった。上級船員たちの船室に出入りするのは、食事の給仕をするときに限られ、船上の身分の違いを前提とした態度で接した。何かを命じられたら「Yes, Sir」と答えるように教えられた。キャビンボーイの基本を叩き込まれたことは、後に仙之助の人生を変えることにもなる。

 船室のテーブルに広げられていたのは地図だった。

 陸上の地図とは異なり、海の部分に多くの文字や数字が書き込まれている。

海図と方位磁石

「これは……何ですか」
「Nautical Chart(海図)だ」

 仙之助にとっては、初めて聞く英語だった。もっとも日本語で言われたところで、初めて聞く言葉であることに変わりはなかった。
「これを見ながら船を操るのですね」
「その通りだ」
「これはアバチャ湾ですか」
「よくわかったな。今はこれがあるから安心だが、ほんの十数年前、海図がない時代のカムチャッカ・グラウンドは命がけの航海だった。仲間の船がいくつも消息を絶ったものさ」

 ダニエルは感慨深げにつぶやいた。

 北太平洋の海図が整備されたのは、一八五三年に北太平洋測量艦隊が派遣されて以降のことである。太平洋横断航路の確保と捕鯨船の保護は当時、アメリカの国益にとって、最優先課題とされていた。一八五四年にペリーの艦隊が日本に派遣されたのも、その目的の一環にほかならなかった。太平洋航路の途上に位置する日本の開国は、捕鯨船や貿易船の補給基地として、また悪天候時の避難港として、何としても必要なものだったのだ。

 嵐の時に避難したモロゾバヤ湾でダニエルが慎重な操船を行ったのは、海図に充分な情報が記されていなかったからだ。アバチャ湾は詳細な海図があるので安心して航行できる。
「アバチャ湾を出たら、立ち寄れる港はないぞ」

 そう言うと、もう一枚の海図を取り出した。カムチャッカ半島からハワイに至る広域の海図だった。ただひたすらに大海原の続く航路であることがわかった。
「もし……、また嵐に遭遇したらどうするのですか」
「そうだな、神に祈るしかないな」
「……」
「ハハハハ、怖がるな。嵐を切り抜けるだけの技術的な準備と心の準備はいつもしている。そうでなければ、太平洋を横断なんかできはしないさ」
「……」

仙之助編 八の六

 船長としてのダニエルの毅然とした姿への憧憬と航海の不安が入り交じり、仙之助は何と言葉を返したらいいかわからなくなった。
「ジョンセン、お前はもう一人前の船乗りだ。そうだな」
「は、はい」
「ならば、嵐に遭う覚悟はしておけ。嵐は、必ず来るものと思っておけ。稀に運の良い航海もあるが、太平洋は……、美しいが、厳しい海だ」
「はい」

 仙之助は、仙太郎が元気だった頃、ヴァン・リードの事務所で太平洋に思いを馳せたことを思い出していた。彼の冒険の舞台はいつも太平洋だった。だからよく太平洋の話をした。

 太平洋ほど、島のない大海原が続く海はない。その大海を挟んで、日本とアメリカは対峙し、中間地点にハワイがある。それがヴァン・リードの知る世界であり、ジョン万次郎の生きた世界であり、仙之助が憧れる異国そのものでもあった。

 長崎にいれば、上海や香港、その先の欧州に目が向いたのかもしれない。だが、横浜で生まれ育った仙之助にとって、世界に開かれた窓は太平洋しかなかった。

 ダニエルは緊張した面持ちの仙之助の背中をぽんぽんと叩いた。
「太平洋が吠える冬には、まだ間がある。Westerlies(偏西風)がほどよく吹くいい季節だ。安心しろ」

 クレマチス号は、帆にたっぷりの風をはらんで、アバチャ湾を出た。

 それが偏西風だった。太平洋を東から西に吹く風は、夏に弱まり、冬に強くなる。

 冬は強い偏西風に乗って船は速く進むが、そのぶん海も荒れる。秋はまさに良い季節と言えた。偏西風にそのまま乗っていくと、北米大陸に至る。クレマチス号は西に進路をとりつつ、途中から南下してハワイをめざすことになる。

 季節は秋が深まっていったが、緯度は下がっていくので、むしろ吹く風は少しずつ温かくなってくるように感じられた。

 波は日によって高くなった。雨の降る日もあった。

 右に左に揉まれるような激しい横揺れが続くこともあった。

 だが、それは太平洋では順調な航海であることを意味していた。

 海が凪いで、風がなくなると帆船は動力を失ってしまう。

 ある日、不気味なほど、風が止まったことがあった。太平洋の偏西風から外れたことを意味していた。ハワイに辿り着くには北西の風に乗らなければならない。

海

 数日後、クレマチス号の帆に待ちに待った風が吹き込んだ。
「Trade wind(貿易風)だぞ」

 船上が沸き立った。ハワイに向かって吹く北西の風のことだった。
「モアエ・レフア……」

 ラニだけは、ハワイ語で貿易風を意味する言葉を感慨深げにつぶやいていた。

 それはまた、ハワイの心地よい気候を象徴する風でもあると、仙之助に教えてくれた。

仙之助編 八の七

 クレマチス号は貿易風で帆を膨らませ、滑るように海上を進んだ。

 日増しに気温が高くなっていく。

 夏の訪れと共に北に向かい、オホーツク海で沈まない太陽の下、冷たい風に吹かれ、秋の訪れと共に南に向かう。永遠に夏を追いかけているような航海だった。

 故郷のハワイが近いからだろう、ラニは上機嫌だった。

 ダニエル船長は、ハワイとは王国の名前で、地理的呼称はサンドウィッチ諸島だと教えてくれた。欧米で作られた地図や海図にはそう記してある。だが、ハワイという呼称の軽やかな響きは耳に心地よく、乗組員たちもそう呼ぶ者が多かった。

 ラニは決して、サンドウィッチ諸島とは呼ばなかった。

 ユージン・ヴァン・リードもそうだったと思い出した。

 仙之助も自然とハワイと呼んできた。

 サンドウィッチ諸島とは、外からの来訪者がつけた呼び名である。それに違和感を覚える者は、その呼称を好まないのだと、仙之助は理解するようになった。

 航海の間に仙之助の英語はすっかり上達した。ぎこちなかった発音も見違えるほどなめらかになった。言葉を覚えただけではない。航海や捕鯨船の仕事を通して広い世界を知り、さまざまな知識を身につけたことが大きかった。そのことが彼の語彙と表現を豊かにし、ものごとの理解も深くなった。

 かつてのジョン万次郎と同じである。

 強い日差しの下での労働ですっかり日焼けし、浅黒いラニの肌と見分けがつかないほどになった。体つきも心なしか胸板が厚くなり、少しだけたくましくなった。

 少年は、ほんの数ヶ月で別人のように大人になる瞬間があるけれど、捕鯨船での日々は、まさにその時だったのだろう。

 素直で人なつこく、ものごとの飲み込みが早い仙之助は、誰からもかわいがられた。

 その性格と順応性もまた、かつてのジョン万次郎によく似ていた。

 ダニエル船長が目をかけた理由でもある。口数が少なく、他の乗組員たちとは距離をおいているラニも仙之助には親しげだった。

 彼は時々、やわらかな響きのハワイ語を唐突に口にする。

 誰もが気に留めないその言葉に仙之助だけは、いつも興味津々に耳を傾け、何度となく聞き返して、英語の単語と同じように覚えようとする。

 それが、ラニにはうれしかった。

 海が凪いだ夜、満天の星空を見ながらラニは言った。
「ホク・レレだ」

 流れ星だった。英語でShooting Starと言われても、仙之助にはぴんとこなかったに違いない。

 藍色の夜空に白い線を描きながら消えていく星のことを、「ホク・レレ」という軽やかな名称と共に心に刻み込んだ。

仙之助編 八の八

 ラニが星の輝く夜空に向かって腕を伸ばし、手のひらを広げた。
「それは何の合図ですか」

 仙之助は興味津々にたずねた。
「俺たちのCompass(羅針盤)だ」

 航海には海図と羅針盤が必要だと、仙之助はダニエル船長から教わった。

 上級船員の船室で見せて貰った羅針盤は、丸い小箱の中に星のような図が描かれたもので、中央で針のようなものが揺れていた。それと、ラニが夜空に向けて開いた手のひらにどんな共通点があるのか、さっぱりわからなかった。
「大昔、俺たちの祖先は、こうして星の位置を測って、島の位置を見つけて航海したと、俺の祖父さんから教わった。でも……、今はハオレ(白人)の羅針盤があるのだから、こんな時代遅れの技術はいらないだろうと言って、誰にも教えずに、祖父さんは死んでしまった。ハオレ(白人)が、俺たちの神様も踊りも否定した時代のことだ」
「……」
「俺は今でも覚えている。祖父さんが時々夜空に向かって手のひらを広げて星を見ていたことを……。だがな、悲しいことに俺は、星で島の方角を……、読むことはできない」

 ラニは、じっと自分の手のひらを見つめながら、絞り出すように語った。

スターコンパス

 瞳に宿った悲しみを読み取った仙之助は言った。
「ハワイは……、Heaven(極楽)ではないのですか」
「ジョンセン、お前は船に乗った時からそう言っていたな」
「はい、ハワイ王国から日本のGeneral(総領事)を任された偉いお方から、そのように教わりました」
「そいつはハオレ(白人)か?」
「ハオレ……、異人のことですね。はい」
「ジョンセン、心配するな。ハワイは花の香りのする風が吹く美しい島だ」
「風……、モアエ・レフアですか」
「そうだ。貿易風という意味だが、レフアはハワイに咲く花の名前でもある」
「レフア……、美しい花なのですか」
「芳しい香りがする美しい赤い花だ。海上を吹く風はハワイの島にも吹き抜けていく。山に当たって恵みの雨を降らせ、心地よい風となって島の西海岸に吹き下ろす」
「ハワイは、風の……島なのですね」
「そうだな。大昔、郵便汽船のように大きな船に乗って、遠い島から航海してきたのが、俺たちハワイアンの祖先だと祖父さんから教わった。大海原の彼方にもっといい島があると信じて、彼らは航海をした。辿り着いたのが太平洋で一番美しく、いい風の吹く島、ハワイだ。Heaven(極楽)だと思ったに違いない。彼らは航海を止めて、大きな船は造らなくなった」

 ラニは微笑んで、仙之助の肩を抱いた。

仙之助編 八の九

 吹く風が変わったのは、その夜遅くのことだった。

 雨を含んだ湿った風は、まもなく荒れ狂う嵐になった。

 ダニエル船長の予言通りだった。ペドロパブロフスク・カムチャスキーを出発してから順調な航海が続いていたが、太平洋はたやすい海ではない。

 夜明け前にマストの帆が畳まれた。嵐に向かう準備だった。

 朝を迎えて、風も雨もますます強くなった。

 カムチャッカ半島沖で嵐に遭った時と同じように、操船をする乗組員以外は船室に入ってハッチを閉めるよう、船長の指示が下った。

 ギギギー、ギギギー。

 再び船体がきしみ始めた。体を保っていられないほど、船体が右に左に揺さぶられる。

 だが、仙之助はもう恐怖は感じなかった。

 凍える北の海ではないということが、気持ちを強くしていた。太平洋を南下する航海で、船乗りとしてひとまわり成長したこともあったのだろう。

 ダニエル船長の海図を読む判断が正しければ、めざすハワイはもう遠くない。

 ザッブーン、ザッブーン。

 ザッブーン、ザッブーン。

 大波が船に叩きつけられる音が響く。

 ギギギー、ギギギー。

 船体がきしむ不気味な音は一昼夜続いた。

 嵐の一日が過ぎ、夜明け間近になってようやく船体のきしむ音が止み、波の音が止んだ。まもなくして、船体の激しい揺れも収まった。
「もう大丈夫だ。甲板に出てもいいぞ」

 ダニエル船長の声が響いた。

 甲板では、慌ただしくマストに帆を張る準備が進められていた。

 風はまだ強かったが、その風に乗って雲がどんどん動いていく。

 雲の合間から光が差してきた。まばゆい金色の光が雨に濡れた甲板に反射する。

 じっと双眼鏡を覗いていたダニエル船長が、水平線の彼方を指さした。
「島影が見えたぞ」

 仙之助は、思わず駆け寄って聞いた。
「ハワイですか」
「カウアイだ」
「えっ?」
「サンドウィッチ諸島のカウアイ島。そう、ハワイの島のひとつだ」

 豆粒ほどの島影が少しずつ大きくなっていく。朝陽が一筋の光となって島に注ぎ、鮮やかな緑色が浮かび上がった。切り立った山並みを覆う緑は見たことのない美しさだった。

仙之助編 八の十

 陽が高くなるにつれ、天候は落ち着き、風に乗った雲が去り、真っ青な空が広がった。

 波も静かだった。クレマチス号はゆったりと、カウアイ島の沿岸を航行した。

 鮮やかな緑に輝く島影は、近づくにつれ、異なる表情を見せ始めた。

 刃物のように鋭く切り立った崖が垂直に幾重にも連なっている。連なった崖の下には、道も集落もなく、斜面はそのままストンと紺碧の海に落ちる。

 何という荒々しい海岸なのだろう。だが、自然の造形は言葉を失うほど美しかった。

 仙之助は呆然と、見たこともない景観に見入っていた。

 故郷の海域に入り、穏やかな笑顔のラニにたずねた。
「どこに……、人は住んでいるのですか」
「この海岸に人は住んでいない」
「えっ?」
「ナパリに人は住めない」
「ナパリとはハワイの言葉ですか」
「崖という意味だ。この海岸には崖しかない。人が住む場所ではない」
「ナパリ……」
「そう、ナパリ海岸と呼ばれている」
「カウアイは人の住まない島なのですか」
「集落は島の反対側にある」
「ホノルルはどこにあるのですか」
「カウアイの隣にあるオアフという島だ」

 突然、船の前方に乗組員たちが集まり始めた。
「Dolphin、Dolphin」

 彼らは、仙之助の聞いたことのない単語を口々に発している。ラニが指さす方向の波間に黒い丸い背中が見えた。
「あ、鯨ですね。小鯨かな」
「ハハハハ、鯨じゃない。お前はDolphinを見たことがないのか」

 まもなく黒い生き物が大きくジャンプした。あきらかに小さく俊敏な姿を見て、仙之助は、ようやくそれが鯨ではないことを理解した。

 イルカという日本語など、知るよしもない仙之助は、Dolphinという英語の次に、ラニが教えてくれたハワイ語のナイアを覚えた。

 何頭ものイルカが船の周囲に集まってきた。

 群青色に輝く海はどこまでも透明で、黒い流線型の体ですいすいと船の先端を泳ぐ姿が甲板の上から手に取るように見えた。

 クレマチス号は、イルカの群れと併走した。彼らは船を遊び相手にしているようでもあり、めざすホノルルへの水先案内のようでもあった。

仙之助編 八の十一

 しばらくすると、陽が少し陰り始めた。夕刻になったのではない。崖の上にもくもくと白い雲が湧き上がったのだった。

 頭上はまだ晴れているのに、雲の中では雨が降っている。

 細かい霧雨は、やがてクレマチス号の甲板にも降り注いだ。

 ラニがぽつんとつぶやいた。
「キリフネか」
「ハワイ語ですか?」
「そうだ。Drizzle(霧雨)の意味だ」
「本当に?日本語ではキリサメと呼びます」
「キリフネとキリサメか、似ているな」
「はい、驚きました」
「日本とハワイは太平洋を隔てて隣同士なのだから、驚くこともないのかもしれないな」
「隣同士……、そうですね。私たちは隣人なのですね」

 仙之助は横浜に来てから、太平洋を挟んでアメリカが隣国であることを意識するようになったが、本当の隣国はアメリカではなく、ハワイ王国だったのだ。

 次の瞬間、霧雨の先に七色のアーチが見えた。
「Rainbow、Rainbow」

 イルカがあらわれた時と同じように乗組員たちは口々に叫んだ。

 虹だった。

 仙之助もあっけにとられたように見上げた。故郷の大曽根村や横浜で夕立の後などに見ることはあったが、これほど美しい虹を見たことはなかった。

ハワイの虹

 緑の崖が連なる海岸と雲と虹の競演は、極楽の風景としか言いようがない。仙之助は涙が頬を伝わっていることに驚いていた。悲しいのでも、悔しいのでもなく、美しさに感動して涙が出るなんて、生まれて初めての経験だった。

 頬に降りかかる霧雨に混じった涙を仙之助は慌てて拭い、ラニにたずねた。
「私たちはRainbow(虹)をニジと呼びます。ハワイ語では何と呼ぶのですか」
「アーヌエヌエともアオ・アクアとも呼ぶ」
「ひとつの言葉ではないのですか」
「アーヌエヌエとは大きくて鮮やかなもの、アオ・アクアには神々の雲という意味がある。それだけではない、どの場所にどんな虹が出るかで、さまざまな呼び名がある。ウアココ、プナケア、カーヒリ、ハカハカエア……」
「待ってください。そんなにたくさんあるのですか。覚えられません」
「ハハハハ、ひとつだけ、アオ・アクアと覚えておくといい。神々の雲、つまり神々の領域と人間の世界を結ぶ架け橋ということだ。ハワイの虹を語るのに最もふさわしいと俺は思っている。ハワイが極楽である証かもしれないな」

仙之助編 八の十二

 崖の背後から湧き上がる雲は、暴れる竜のように動きが速かった。縦横無尽に光は遮られたり、山肌を照らしたりした。めまぐるしく変化する光の中で、ナパリ海岸にかかる虹は消えかかっては、再びあらわれた。

 人の住まない海岸であるならば、クレマチス号の乗組員たちしか、この美しい虹を見ていないことになる。そう思うと、仙之助の心は震えた。

 自分たちだけが選ばれて、神々と交信しているような気がした。
「ハワイは風の島であると同時に、虹の島でもあるのですね」
「虹の島……、そうだな」

 ラニは静かに言葉をつなげた。
「俺たちは頻繁に虹を見ている。雨が降れば、たいていその後に虹が出る。だから、虹を呼ぶたくさんの言葉がある。捕鯨船に乗って初めて、ハワイほど虹がよく出る土地はないことを知った。離れてみて、虹の島であることに気づいたよ」

 仙之助はハワイ語では虹を呼ぶ言葉がたくさんあると聞いて、牛をめぐる英単語を学んだ時のことを思い出した。日本語では「牛」としか呼ばないが、英語ではCow、Cattle、Beef、すなわち動物としての牛、家畜としての牛、牛肉と表現する意味の違いからさまざまな言葉がある。その代わり、日本語では、さまざまな呼び名がある米が英語では単にRiceなのだった。

 世界には知らないことがたくさんある。自分たちの生きる世界で常識だったことが、よその国に行くと常識ではなくなる。だからこそ面白い。広い世界を知りたい、見たことのない風景を見たい。そのためにはどんな苦労も厭わないと、仙之助はあらためて思った。

 武者震いのような感覚が全身を駆け抜け、再び涙が頬を伝った。

 虹を見た感涙とも違う涙だった。

 こんなに涙が止まらなくなったのは仙太郎が亡くなった時以来だと思った。そして、仙太郎のことを思うと、複雑な心境がさらに涙を誘った。

 いつしか虹は消え、霧雨も止んでいた。

 仙之助は頬の涙を両手で必死に拭った。

 クレマチス号がナパリ海岸を離れ、カウアイ島が再び遠ざかる頃、真っ赤な夕陽が水平線に沈んだ。崖にかかっていた雲は風にちぎれ、空全体に魚の鱗のように広がっていた。その雲に夕陽から放たれた鮮烈なオレンジ色が反射する。

 嵐の夜明けから始まった感動的な一日が終わろうとしていた。

 夕陽に見入りながら、隣にラニがいないことに気づいて、仙之助は慌てて仕事の持ち場に戻った。上級船員に夕食のサービスを始める時間だった。

 ダニエル船長の指示に従い、横浜から積み込んだ上等の赤葡萄酒の最後の一本をあけてワイングラスに注いだ。ラニと仙之助が給仕する最後の夕食だった。

 翌日はいよいよホノルルに入港する。夜が明ければ、オアフ島が見えるはずだった。