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仙之助編 十七の一から十七の十二まで

仙之助編 十七の一

 岩倉具視欧米使節団の一行を乗せた蒸気船アメリカ号が、二十三日間におよぶ太平洋の航海を終えてサンフランシスコに到着したのは、一八七二年一月十五日。旧暦では明治四年十二月六日のことだった。

 サンフランシスコは、太平洋とサンフランシスコ湾に囲まれた半島の北端に開けた港町である。北に接するマリン岬との間に金門(ゴールデンゲート)海峡があり、太平洋からアプローチする際の玄関口となる。

サンフランシスコの港

 この海峡に「金門」という印象的な名前をつけたのは、アメリカ陸軍将校で探検家でもあったジョン・C・フレモントである。共和党の大統領候補でもあり、奴隷制に反対した政治要綱を持つ多数党からの最初の候補者でもあった。オスマン帝国(トルコ)のコンスタンティノープル(イスタンブール)の金角(ゴールデンホーン)湾にちなんでの命名とされる。

 ヨーロッパ大陸から角のように突き出した金角湾がヨーロッパとアジアの境界であるのに対し、金門海峡は、アジアとアメリカの境界ということになる。

 フレモントの命名は一八四六年のことだったが、三年後の一八四九年にサンフランシスコ郊外で金鉱が発見され、ゴールデンラッシュが始まった。多くの人々がカリフォルニアに押し寄せたが、中国人移民など太平洋を渡ってきた者たちにとっては、黄金の名を冠した海峡は、彼らの夢を象徴する名称となった。

 アメリカ号が金門海峡に入ったのは、一月十五日の早朝だった。

 マストには、高々と日の丸が掲げられていた。

 今日のサンフランシスコを象徴するゴールデンゲートブリッジが、完成するのは一九三七年になるが、当時は、この海峡に入ることが、長旅を終えてサンフランシスコに到着した感動が湧き上がる瞬間だった。

 夜明け前から、甲板には使節団の一行が、大海原の彼方にあらわれる目的地をいち早く見ようと詰めかけていた。

 サンフランシスコ周辺は、年間の気温差の少ない温暖な地中海性気候で、夏は晴れて乾燥し、冬は湿潤で雨が多い。だが、この年の冬は雨が少なく、その朝もよく晴れていた。

 蒸気船が湾内に入り、港の桟橋に近づいた頃、港と反対側の方角から礼砲が轟いた。

 湾内に浮かぶアルカトラズ島の要塞に設置された大砲から発されたものだった。

 サンフランシスコが太平洋航路の要衝となり始めた一八五二年、島に初めての灯台が設置され、南北戦争の頃には、港を警備する要塞として砲台が整備されるようになった。

 二十一発の礼砲は、使節団を最大級に歓迎するものだった。

 アメリカ政府にとっては、鎖国していた日本を開国に導いたのは自国であることの自負があった。明治政府の高官の訪問は、すでにあったが、今回はミカドから信任された特命全権大使の一行が訪問する特別な使節団として認識されていた。

 アメリカ号のサンフランシスコ到着は、奇しくも、横浜の神風楼で山口仙之助がトメと祝言をあげた日の出来事だった。

仙之助編 十七の二

 一八七二年一月十五日の朝、牧野富三郎は、港の方角から聞こえてくる礼砲の音で目を覚ました。彼が間借りしていた小さな部屋は、サクラメント通りの外れにあった。
「小広州(Little Cantong)」「小中国(Little China)」などと呼ばれた、いわゆるチャイナタウンの一角である。

 当時のサンフランシスコには、日本人の在住者はまだほとんどいなかった。

 一八六九年に会津から入植した若松コロニーの移民たちは、エルドラド郡のゴールドヒルに入植していたし、富三郎と共に渡米した者たちも、サンフランシスコから離れた場所に仕事を得て散らばっていた。

 中国人の進出は、日本人より早かった。一八四九年にゴールドラッシュが始まると同時に、彼らはカリフォルニアに押し寄せた。一攫千金を夢見た人々は直ちに金鉱に向かったが、当時から金鉱で働く同胞に物資を供給する商店がサンフランシスコにはあった。三年後の一八五二年には、すでに約三千人の中国人がサンフランシスコに在住していたという。当時の総人口が約三万六千人であるから、彼らの勢力がどれだけ大きかったかわかる。

 ゴールドラッシュが終焉すると、次は大陸横断鉄道の労働力となった。

 一八六三年に着工した当初は、主にアイルランド人やメキシコ人が雇用されたが、難工事による重労働から脱落する者が多かった。その穴を埋めたのが中国人労働者だったのだ。

 富三郎は、日本人移民の仕事の仲介を生業としていたが、ハワイから渡航した同胞の数は少なく、仕事は限られていた。新たな商売を立ち上げることを模索していたが、チャンスが掴めないまま、中国人の営む商店で雑用を引き受けて糊口をしのぐ日々だった。

 夢と希望を抱いて渡航したアメリカ本土だったが、移民総代としてそれなりの地位にあったハワイにいた時と比べると、何の後ろ盾もない生活は厳しかった。

 そのなかで、唯一の望みとしていたのが、仙之助の到着だった。

 いったん帰国した仙之助が、再び渡航するのは容易ではないことはわかっている。それでも、自分の手紙を読んで、彼が奮起するに違いないと信じていた。

 仙之助と一緒であれば、何か大きなことが出来そうな予感がしていた。

 だが、サンフランシスコに着いてから神風楼に出した手紙に、まだ返事はなかった。

 立て続けに響く礼砲に導かれるように、富三郎は、港の桟橋を目指した。

 何度となく港で見かけた見覚えのある蒸気船が近づいてくるのが見えた。横浜からの定期航路の郵便汽船に違いない。

 いつもと違うのは、桟橋に大勢の人々が集まっていることだった。港の周辺に普段たむろしているような労働者ではない。正装の紳士淑女がそこにはいた。

 次の瞬間、富三郎の目に飛び込んできたのは、マストに翻る日の丸だった。

 岩倉具視使節団のことなど、富三郎は知るよしもない。

 だが、正装の紳士淑女が、日の丸を掲げた蒸気船を出迎えているのは確かだった。

 富三郎は、その様子を遠くから眺めながら、胸がざわめくのを感じていた。

仙之助編 十七の三

 アメリカ号から下船した岩倉使節団の一行は、馬車に分乗し、マーケットストリートに立つ宿泊先のグランドホテルに到着した。数年前に開業したばかりの、当時、サンフランシスコで最上級の壮麗な外観のホテルだった。

グランドホテルサンフランシスコ

 古式ゆかしい烏帽子直垂姿の岩倉具視大使、艶やかな振り袖姿の女子留学生たちが、ひときわ人々の目を引いた。そのほかの団員たちは洋装だった。

 グランドホテルの偉容は、彼らも驚きだったのだろう。馬車を下りた彼らは、みな一様に建物を見上げて目を見張り、周囲をきょろきょろと見回しながら玄関を入っていった。

 富三郎は、通りの向かい側から人混みに紛れて、その様子を見つめていた。

 集まった人々は口々に「ジャパン」「ミカド」と連呼している。

 彼らが日本人であり、古式ゆかしい装束の人物が、天皇ではないのだろうか、その系統を引くやんごとない人物であることは、富三郎もすぐに理解した。

 ホテルの前には、次々と馬車が到着し、市長、商工会議所の会頭、提督、将軍など、一目で重要な役職とわかる人たちが降り立った。

 グランドホテルの周囲は黒山の人だかりとなった。

 夜が更けるにつれ、人の数はますます多くなった。集まった群衆の数はおよそ四万人にのぼった。軍楽隊があらわれて歓迎の曲を演奏する。ホテルの周囲はお祭り騒ぎだった。

 エキゾティックな装いの岩倉大使がバルコニーにあらわれると、群衆の興奮は頂点に達した。岩倉は丁寧に頭を下げると、アメリカ国民の歓迎を感謝すると日本語で挨拶をした。

 使節団随行のデロング公使が通訳すると、人々の歓声が夜空に響いた。
「ウェルカム、ジャパン」
「ウェルカム、ミカド」

 富三郎は感極まって、日本語で叫んだ。
「私は日本人です。日本の皆さまのサンフランシスコ到着を歓迎致します」

 だが、その声は群衆の歓声にあっけなくかき消された。

 集まった人々のほとんどは白人だったが、通りを二つほど隔てたチャイナタウンの商店主たちも、もの珍しそうに集まっていた。いかにも労働者然とした服装をした富三郎の姿は、彼らの中に紛れていたに違いない。

 富三郎は、もう一度、大きな声で叫んだ。
「私は日本人です。日本の皆さまのサンフランシスコ到着を歓迎致します」

 声を上げた瞬間、今度は軍楽隊の演奏が高らかに始まり、富三郎の声は再びかき消された。

 グランドホテルの周囲のお祭り騒ぎは、深夜まで続いた。

 富三郎は喧騒の中で、いつまでもホテルの窓を見上げていた。

 仙之助がこの一行の末席に加わっているなどという奇跡はないのだろうか。あるいは、仙之助の消息を知る誰かが一行の中にいないだろうか。彼らがサンフランシスコに滞在している間に、団員と接触する機会を何とか見つけようと、富三郎は考えていた。

仙之助編 十七の四

 翌朝、興奮冷めやらぬまま目を覚ました富三郎は、使節団の投宿先であるグランドホテルに忍び込む方法をないかと思案を巡らせた。

 思いついたのは、団員たちと同じ紳士然とした服装を整えることだった。

 昨夜、バルコニーで挨拶をしていた団長の威厳のある和服をサンフランシスコであつらえるのは無理だが、幸い、そのほかの団員たちは洋装だった。

 サンフランシスコにいる東洋人と言えば、中国人の労働者ばかりである。昨夜の大歓迎で日本の使節団の来訪は知れ渡っている。紳士のような服装をした東洋人がいれば、誰もが使節団の一行と疑わないだろう。

 富三郎は、経験上、白人たちが東洋人の顔を見分けるに長けていないのを知っていた。

 使節団の一行は、なかなかの大所帯である。富三郎が彼らに紛れて入館しても怪しまれないのではないか。

 早速、富三郎は顔なじみの中国人の仕立屋から、紳士が着用する上着とシャツ、ズボンの一揃いを借り受けた。

 服装が整うと、不思議と気分もあがる。下働きをして日銭を稼ぐ日常から離れて、移民団の総代として、政府とやりとりしていた頃の誇りがよみがえってきた。

 グランドホテルのあるマーケットストリートの界隈まで行ってみると、なんと団員らしき数人の若い日本人がホテルの玄関から出てくるところに出くわした。

 馬車の出迎えが来ている訳ではない。

 前日に到着したばかりの彼らは、休養日なのかもしれない。

 彼らは、いちようにしばらく立ち止まったまま、あたりをキョロキョロと見まわしていた。

 富三郎は、意を決して彼らに近寄った。

 団員たちも富三郎の姿に気づいたようだった。怪訝そうに顔を覗き込んでいる。

 富三郎は帽子をとって、頭を下げた。

 すると、相手の方から話しかけてきた。
「はて、船上では見かけなかったお顔のように拝察しますが」

 団員のひとりが言った。

 富三郎はしばらく逡巡した後、腹をくくって答えた。
「はい、こちらに住んでいる日本人にございます」

 すると、服装が功を奏したのだろう。怪しむ様子もなく、むしろ彼らの顔が明るくなった。アメリカには幕末以降渡航した留学生がいることは彼らも情報として知っていた。例えば、岩倉具視大使の息子もシカゴに留学していた。
「では、このあたりの地理にも通じておられるのか」
「は、はい、もちろんでございます。少しこの界隈をご案内致しましょうか」
「かたじけない。それは渡りに船だ」

 彼らの興味は、富三郎の素性よりも通りの風景に向かっていた。

仙之助編 十七の五

 富三郎は、使節団の若い団員たちを引き連れて、マーケットストリートから港と反対の方向に少し北上した。カーニーストリートで右に折れて、ポートマウス広場に向かった。

 団員たちは興味津々に左右の高い建物を見上げていた。
「ほう、たいしたものだな」

 富三郎も初めてサンフランシスコに来た時は、同じように何もかもが珍しかった。街の賑わいは、ホノルルとは比べものにならなかった。

 カーニーストリートをさらにカリフォルニア劇場まで歩いた。
「これは、町一番の芝居小屋にございます」
「ほう、芝居小屋もこんなに立派な建物なのか」
「はい。ご存じと思いますが、サンフランシスコは二十年ほど前に金鉱が見つかって、それを契機に栄えたものでございます」
「わずか二十年でこんなに立派になったのか。ならば、我が国の新しい都もあと二十年もすれば、サンフランシスコになれるかもしれんな」
「はい、その通りでございます」

 団員たちの表情がなごんだのを見計らって、富三郎は勇気を振り絞ってたずねた。
「あの……、ご一行の従者に、山口仙之助と申すものはおりませんか」
「山口仙之助?」
「はて、岩倉様の従者の……、山口殿のことではないか」

 団員たちは顔を見合わせて言った。
「本日は休養日なので、我らもこのように三々五々出かけておる。山口殿も宿舎におられるのか、さだかではない。明日からは一同で市内視察の予定と聞いている。それには一同、同行するであろう」
「視察はどちらに行かれるのですか」
「さて、馬車と毛織物の視察だと聞いておったな」
「午後は確か、庭に行くそうだ」
「庭……、庭でございますか」
「さよう。なんでも大きな庭があるそうだな」
「ガーデン……、ウッドワーズ・ガーデンのことではございませんか」
「ああ、そんな名前だった気がする」
「そうですか。明日はウッドワーズ・ガーデンに行かれるのでございますね」

ウッドワーズ・ガーデン

 ウッドワーズ・ガーデンとは、ゴールドラッシュで財産を築いたロバート・B・ウッドワーズという富豪が一八六六年に開園した遊園地のような施設だった。動物園があり、植物園があり、美術館がある。使節団が訪れた一八七二年のサンフランシスコでは、最大の観光地であるとともに、市民にとっては憩いの場であり、自慢の場所でもあった。そのため、産業施設とともにいち早く視察の日程に組み込まれたのだろう。

仙之助編 十七の六

 ウッドワーズ・ガーデンは、入り口の門をくぐると、まず展示館があり、鳥獣の剥製や昆虫のアルコール漬けのビンなどが棚に並んでいた。

 さらに、その近くには、巨大な温室があった。鉄製の骨組みにガラスをはめ込んだ天井からは燦々と日が差し込み、屋内は常に真夏のような気温が保たれ、身の丈ほどもある熱帯植物が繁茂していた。

 温室の中は、彩り鮮やかな鳥がさえずり、かぐわしい花の香りがする。富三郎は、時々なけなしの金で入場料を払ってここに来ては、遠いハワイを懐かしむことがあった。

 いつものように温室で熱帯植物を愛でていると、どこからか日本語らしき会話が聞こえてきた。前日に会った団員が言った通り、使節団の一行がやって来たのだった。

 先頭を和服姿の岩倉大使が歩き、その後ろを団員たちがぞろぞろと続いてくる。

 時々、案内役らしき白人の紳士が立ち止まっては説明するのを言葉に長けた団員のひとりが通訳する。誰もが興味津々の表情で、キョロキョロと温室の中を見まわしている。

 富三郎は、その一団の中に見覚えのある顔を見つけた。

 前日と同じように服装を整えた富三郎が彼らに近づくのを不審に思う者は誰もいなかった。しばらくして相手も富三郎に気づいたようだった。

 仙之助と同じくらいの年格好の見慣れない青年が隣にいた。
「山口……、林之助と申します。私をおたずねとか」

 富三郎は慌てて答えた。
「いや、申し訳ありません。私が探しているのは、横浜出身の仙之助という男でして」
「もしや、山口仙之助さんのお知り合いですか」
「仙之助をご存じなのですか」
「横浜の仕立屋で偶然、お目にかかりました。私と同じ年格好の、メリケンの言葉が達者なお方ですよね」
「そうです、そうです」
「伊藤様の従者になるご予定が果たせず、私たちの使節団には同行できなかったが、必ず渡米するとおっしゃっていましたよ」
「そうですか。それを聞いて安心しました。ありがとうございます」
「こちらで再会できる機会があればいいのですが」
「皆さま方はサンフランシスコにはどのくらい滞在されるのですか」
「当初は、すぐに大陸横断鉄道に乗車すると聞いておりましたが、当地の方々が思いのほかの大歓迎で、あれやこれやとご招待があるようで、今しばらくは、こうしてあちこち見物させて頂くことになるようです」

 一行は、温室を出て、名画が展示された美術館を見学し、水鳥の遊ぶ庭園とダチョウやラクダが走り廻る草地のあたりに進んだ。野生のままの姿を見せる珍しい動物に団員たちは一様に目を見張り、驚いていた。

仙之助編 十七の七

 岩倉具節団の一行は、一八七二年一月十五日の到着後、三十一日までの十七日間をサンフランシスコとその周辺で過ごした。

 サンフランシスコは湾を挟んで、対岸にオークランド村、ベルモンド村、サンノゼ村といった地域が点在し、産業が発展していた。滞在が長くなった理由のひとつとして、これらの地域を拠点とする富豪の招待が相次いだこともあった。

 そのひとつであるオークランドが、一八六九年に開通したばかりの大陸横断鉄道の始点だった。当初の始点は、少し内陸にあるサクラメントだったが、同年、湾に面して港があるオークランドまで路線が延長されたのだった。

 一八七二年一月三十一日の朝早く、サンフランシスコのグランドホテルを出発した一行は、蒸気船でオークランドに向かった。

 その前夜、牧野富三郎は、グランドホテルを訪ねて、山口林之助と、市内案内をして顔見知りになった二人、同じく従者だという佐々木兵三と坂井秀之丞と面会し、別れを惜しんだ。ウッドワーズ・ガーデンで親しくなってから何度となく彼らと話す機会があり、すっかり意気投合していた。

 富三郎から見れば、政府の使節団の一員である彼らは、雲の上の存在であり、当初は引け目を感じていた。一方、異国が初めての団員たちにとっては、異国に暮らす富三郎は、畏敬の存在であった。彼らに共通していたのは、異国に対する強い興味と憧れがあって海を渡った者たちであることだった。それがお互いの気持ちを共鳴させていた。

 富三郎は、別れ際、使節団の日程を聞き出すことも忘れなかった。

 従者という立場は、末端の団員ではあるが、使節に直属の立場であり、留学生たちよりも事務方の情報には詳しかった。とはいえ、想定外にサンフランシスコに長く滞在したように、使節団の日程は詳しく決まっていなかった。首都のワシントンは、重要な目的地のひとつだから、条約改正に関わる交渉などで長く滞在するかもしれないとのことだった。

 近いうちに仙之助がサンフランシスコに到着したとして、それから使節団を追いかけても、彼らと途中の都市で会える確率は限りなく低いだろう。東海岸のワシントンまで行ったとしても、彼らと再会できる保証はなかった。

 大陸横断鉄道の旅には、随行してきた駐日アメリカ公使のデ・ロングと夫人のほか、アメリカ号で到着したメンバーのほとんどが加わった。

 アメリカの鉄道開発は東海岸から始まった。東部の鉄道網がミズーリ川を越えてネブラスカ州オマハまで到達したのが一八五九年。西部開拓が進むなか、西海岸への鉄道の延伸は、アメリカ合衆国の行く末を左右する大きな課題だった。一八六二年にエイブラハム・リンカーンが制定した太平洋鉄道法は、連邦政府の支援の下で大陸横断を促進するもので、南北戦争で国の分離が懸念されたこの時代、広大な合衆国の統合を維持する側面もあった。

 西海岸を拠点とするセントラル・パシフィック鉄道は、東海岸のユニオン・パシフィック鉄道とつながって大陸横断鉄道となったのである。

仙之助編 十七の八

 岩倉使節団はオークランドでセントラル・パシフィック鉄道の車両に乗車した。

 日本で最初の鉄道が開業するのは、一八七二年の十月。すなわち、欧米視察の経験がある者以外は、初めて目にする蒸気機関車だったことになる。

 欧州で鉄道に乗った経験がある者も寝台車を目にするのは初めてだった。

 オリエント急行に代表される国境をまたいで走行する寝台列車が欧州に登場するのは、一八八〇年代以降のことだ。アメリカの大陸横断鉄道に連結されたプルマン社の車両に驚いた欧州の人たちがこれを真似たとされる。一八五九年に開業したアメリカの大陸横断鉄道は、欧州の鉄道さえ凌駕する、最新鋭の交通機関だったのである。使節団の面々が寝台車の設えに驚いたのも無理はない。

 一等の寝台車は、両側の車両をそれぞれに六つの客室に分け、各室には二人ずつ乗客が入る設計になっていた。中央には通路、両端の広いスペースにはストーブが焚かれ、さらに洗面台、用水タンク、便所といった水回りの設備が備えられていた。床にはカーペットが敷き詰められ、日中は各室の真ん中にテーブルを設える仕掛けがあり、それを挟んで長椅子が相対する。ここで、読み書きをしたり、会話を楽しんだりすることができた。夜には長椅子が寝床になり、上方の鉤を外すと、もうひとつの寝床が下りてきて上下二段の寝台になった。布団や枕が備えられ、カーテンを下ろして就寝する。華やかな花模様があしらわれた天井、黄金や華やかな色彩の塗料を使った内装は、宮殿のように豪華だった。

 総勢百名余りの一行は、一車両で二十四名を収容する車両を五つ貸し切った。

 オークランドを出発した使節団は、サクラメントで途中下車をして当地一番の宿であるオルレアン・ホテルに宿泊した。

 カルフォルニア州の州都でもあるサクラメントは、セントラル・パシフィック鉄道の本拠地だった。四人のサクラメントの実業家、通称「ビックフォー」が設立した会社である。ここで蒸気機関車の製造工場と議事堂を訪問するのが目的だった。

 サンフランシスコをブームタウンに押し上げたゴールドラッシュは、もともとサクラメント郊外のサッター砦で黄金が発見されたことに端を発する。使節団が途中下車をしたのは、西海岸の歴史を象徴する都市だったからだろう。二月一日の夜は、市をあげての歓迎会が催され、その後、ゆっくり休む間もなく、深夜三時に再び列車に乗り込んだ。

 サクラメントを過ぎると、鉄路はシエラネバダ山脈の山越えにさしかかる。

 西部開拓の大きな妨げになったのが、大陸の南北を縦断するシエラネバダ山脈だった。北部のロッキー山脈よりも、山々の標高はシエラネバダのほうが高い。

 セントラル・パシフィック鉄道の開発においても最大の難所であり、発明されたばかりのニトログリセリンを用いて固い岩盤を発破したが、多くの犠牲者を出したという。

 平地から一転して、壁のようにそそり立つ山脈を汽車は蛇行するように迂回しながら登っていった。ゴールドラッシュは終焉していたが、山中には金採取を目的とする小村が、いまもなお点在し、金鉱山が大きな産業であり続けているのが見て取れた。

仙之助編 十七の九

 山間を進む鉄路の高度が上がるにつれ、気温が下がり、灰色の空から落ちてくる霙まじりの雪は、やがて本格的な降雪となった。

シエラネバダ山脈越えの列車

 汽車は機関車を増結し、トンネルやスノーシェッド(雪崩よけ)をくぐり抜けるようにして最高地点のサミット駅に到着した。ここでラッセル車を連結して下りに転じる。闇夜を一晩疾走すると、翌朝はもう雪はなく、枯れ草の生えた平原が広がっていた。

 サクラメントを出発して三日目の朝、ネヴァダ州を過ぎてユタ州に入った。車窓に巨大な湖が見え始めた。グレートソルトレーク(大塩湖)だった。

 湖岸を走って、まもなくすると州都ソルトレイクシティが見えてきた。

 このあたりは、内陸性の気候で冬の寒さが厳しい。岩倉使節団の一行が訪れた二月初旬は、厳冬期であり、気温はマイナス三十度まで下がることもあった。

 おりしも大寒波に見舞われて、しんしんと雪が降り積もっていた。

 宿舎となったのは、タウンゼントハウスという瀟洒な佇まいのホテルだった。大雪に震え上がった一行は、郊外の温泉を紹介され湯治に出かけて一息ついた。

 ところが、ソルトレイクシティに戻ると、ロッキー山脈の大雪で出発の見込みがないと知らされる。旧暦では明治四年の年の瀬も押し迫った十二月二十八日のことだった。

 ソルトレイクシティは、モルモン教、すなわち末日聖徒イエス・キリスト教会の開拓者が築いた宗教都市だった。キリスト教の一派でありながら独自の教義を持つモルモン教徒は異端として迫害され、この地に逃れてきたという。市内には壮大な聖堂がそびえていた。

 使節団は明治五年の年明けを地元の役人たちと宿舎のタウンゼントハウスで祝った。

 足止めは十八日間におよんだ。復旧した鉄道に再び乗り込み、旅が再開したのは、二月二十二日のことだった。ロッキー山脈を超えるのに三日間を要し、ミズーリ湖畔のオマハに到着した。大陸横断鉄道は、ここでユニオン・パシフィック鉄道の管轄になる。

 オマハを過ぎると、荒野や険しい山越えとは風景が一変した。ミズーリ州からイリノイ州に入ると、車窓に広がるのはトウモロコシ畑や果樹園が続く穀倉地帯になった。

 二月二十六日の午後、使節団はシカゴに到着した。

 当時のシカゴは、前年十月の大火からの復興途上にあった。見るべきものはたくさんあったが、途中の足止めで予定がだいぶ遅れていたため、二日間の慌ただしい滞在だった。

 ニュージャージー州の名門、ラトガーズ大学に留学していた岩倉具視の子息たち、具定と具経が面会のため、出迎えにきていた。その夜、息子たちは、旧態依然とした父親の装束は文明開化をめざす日本の大使にふさわしくないと、強く非難した。

 振り袖姿の女子留学生たちと共にエキゾティックな装束を賞賛されることに気を良くしていた岩倉具視だったが、その日のうちに断髪して服装もあらためた。

 二十七日の夜、一行は再び汽車に乗り込んだ。ワシントンまでは、一昼夜の行程だった。

 西海岸の出発からおよそ一ヶ月の長旅を経て、一八七二年二月二十九日、使節団は、ついにアメリカ合衆国の首都ワシントンに到着したのだった。

仙之助編 十七の十

 山口仙之助が乗船した太平洋郵便汽船のジャパン号が、金門海峡を抜けてサンフランシスコの桟橋に到着したのは、一八七二年二月十七日の朝だった。

japan号

 牧野富三郎は、まめに新聞に目を通して、横浜からの定期航路が到着する情報に注意していた。仙之助から渡米を伝える手紙は届いていなかったが、必ずサンフランシスコに来ると信じて疑わなかった。

 その朝は、とりわけ確信めいたものを感じて、富三郎は桟橋で待っていた。

 最初に一等船客の紳士淑女が下船してくる。スティアリッジ(下級船客)の下船は最後だった。富三郎は、中国人移民らしきアジア人の群れを凝視した。そのなかに一人、場違いな紳士服に身を包んだ男がいた。目深に被った帽子を脱ぐと、涼やかな目元の若い男だった。
「もしや……、ああ、そうだ。間違いない」

 富三郎は大声で叫んだ。
「おおーい、仙之助さん」

 仙之助も気づいたようだった。驚いたような、ほっとしたような笑顔で手を振っている。富三郎は大きく両手を挙げて振り返した。

 一八六九年の年明けにハワイで別れてから、三年ぶりの再会だった。
「仙之助さん、ますます立派になられましたな。見違えました」
「いや、格好だけですよ。富三郎も元気そうでよかった。サンフランシスコで会えることを期待してはいたけれど、迎えに来てくれるとは……」

 富三郎は三年前の感情の行き違いを思い出した。捕鯨船で出発する仙之助を見送りに行かなかった後悔はずっと心の片隅にあった。

 そのわだかまりを消したい気持ちも込めて言った。
「当たり前じゃないですか。お待ちしていました」
「会えて……、よかった」
「ずっとずっと……、到着をお待ちしていました」

 二人はおずおずと抱擁した。

 中国人移民たちも迎えの同胞たちと大声で何かを言い合っていた。人の群れでごった返す桟橋をかき分けるようにして、富三郎は自分の部屋があるサクラメント通りをめざした。
「ホノルルよりも、小さくて汚いところでお恥ずかしいのですが」
「そんなことはかまわないよ。それより……、使節団の一行とはこちらで会ったのか」
「はい、お目にかかりました。岩倉様や伊藤様のようなお偉方とお話する機会がありませんでしたが、従者の若い方たちと親しくなりました。よく似たお名前の……」
「本当か?もしや、私と仕立屋ですれ違った……」
「はい、山口林之助さん、ですよね」
「そう、そうだ。林之助さん、彼と会ったのか」

 仙之助は感慨深く、横浜での出来事を思い出した。

仙之助編 十七の十一

 岩倉使節団の話に興奮した仙之助は息せき切って、富三郎にたずねた。
「使節団の方々は、もうサンフランシスコを発ってしまわれたのか」
「はい、先月の月末にお発ちになりました。何カ所かで途中下車をされるとのことでしたが、おそらく今頃は東海岸に到着されているのではないかと思います」
「そうか、間に合わなかったな」

 仙之助は、途方に暮れたようにうつむいた。

 富三郎は、使節団の一行を見送ってから心に秘めていたことをつぶやいた。
「追いかけますか」
「追いかける?」
「そうです。使節団を追いかけましょう」
「どこに行けば会えるというのだ」
「ワシントンです。条約改正の交渉でしばらく滞在されるとおっしゃっていました」

 岩倉使節団の一行は、その頃、ソルトレイクシティで雪に閉ざされて立ち往生していたが、もちろん富三郎と仙之助には知るよしもなかった。
「追いかけるのならば、一刻も早く出発しなければならないだろう」
「その通りです。大西洋を渡ってしまわれたら、どうしようもない」
「追いかけて、それからどうするというのだ」
「従者として一行に加えて頂くのです」
「そんな都合のいい話が通用するものか。一度は断られているのだぞ」
「ワシントンまで追いかけてきた同胞をむげに断るでしょうか」
「富三郎、本気でそう思っているのか」
「本気でなかったら、追いかけようなどと申しません」
「ならば、出発の前にせめてサンフランシスコの見物くらいさせてほしい」
「もちろんですとも」

 外に出ると、突然、爆竹の音が聞こえてきた。聞き覚えのある音だった。横浜でも中国人たちは祝いごとがあるたびに爆竹を鳴らす。

爆竹

「おかしいな。正月はもう終わったはずなのに」

 一八七二年二月十七日は旧暦の一月九日だった。
「今日、大勢の同胞が上陸したからではないか。船上で正月を迎えた時に爆竹が鳴らせないと彼らは残念がっていたからな」

 景気の良い爆竹に誘われるようにチャイナタウンの食堂に入って腹ごしらえをした後、仙之助の希望で、使節団の宿舎だったグランドホテルに向かった。

 威風堂々たる建物を見上げて、仙之助は小さくため息をついた。使節団の従者として、ここに出入りしていた自分を想像したからだった。もう一度、その可能性を掴みに行く。副使の伊藤博文と話した時の好感触が仙之助の気持ちを強くしていた。

仙之助編 十七の十二

 富三郎と仙之助が大陸横断の旅に出発したのは、サンフランシスコに到着して五日後の一八七二年二月二十二日だった。

 岩倉使節団の一行は一等寝台車を借り切ったが、彼らにそんな贅沢ができないのは言うまでもない。仙之助は養父の粂蔵から貰った旅費があり、富三郎も多少の蓄えがあったが、無駄使いはできないと、ワシントンまで三等車の切符を購入した。

 大陸横断鉄道の起点となるオークランド駅まで、サンフランシスコ湾を蒸気船で渡る。大海原とは違う、穏やかな内海の航海に仙之助は、新たな旅の始まりを実感していた。

 オークランドの波止場は長い桟橋が特徴で、ここから鉄道に乗り込む。

 三等車は固い木製のベンチが並ぶ簡素な車両だった。

 鉄道沿線のどこかに働きに行くのだろう、簡素な服装の労働者が多かった。中国人らしきアジア人もちらほらいる。何組か家族連れの姿もあった。

 ここでも紳士服姿の仙之助は目を引いた。駅員の一人が話しかけてくる。
「おや、学生さんかい?どこの国から来た?」

 身なりがいいのに倹約していることから留学生と思ったのだろう。仙之助は、最初の問いかけは無視して、二番目の質問にだけ答えた。
「日本から来た、日本人だ」
「そうか。日本人か。雪で足止めされた一行の国だな」
「雪で足止め?何があったのか」
「二週間少し前に大雪が降って、鉄道がソルトレイクシティで止まったちまったんだ」
「ソルト?塩の湖とは何だ?」
「ソルトレイクという湖の畔にある都市さ。日本人のお偉いさん方の一行が乗っていて、そこに足止めになっていたらしい。お前さんたちは運がいい。やっと雪が止んで、今日から大陸横断鉄道が通常運行に戻ったところだ」
「じゃあ、日本人の一行は今日まで、ソルトレイクとやらにいたのか」
「昨日までは鉄道が動いていないんだから、そういうことだろうよ」

 仙之助と富三郎は、思わず顔を見合わせた。

 この大雪は、もしかしたら千載一遇のチャンスなのかもしれない。無言のうちに胸が高鳴るのを感じていた。使節団を追いかけるという無謀な冒険は、彼らの到着より前に使節団が欧州に向けて旅立ってしまえば意味をなさなくなる。少なくともそれは回避できる。

 条約改正交渉にどれだけの日数を要するのかはわからない。仙之助と富三郎はもちろん、従者たちも、さらに言えば使節団の正使や副使たちでさえ、わからなかった。

 だが、仙之助と富三郎にとっては、間に合うということがすべてだった。ワシントンで追いつける、いや、彼らが途中下車するのなら、ワシントンで待ち受けることができる。

 その時、腹の底に響くような汽笛が停車場に響き渡った。大陸横断鉄道は、シエラネバダ山脈に向けて力強く出発した。