
仙之助編 二十二の一から二十二の十二まで
仙之助が意を決し、富三郎に話を切り出したのは、年が明けて一八七四年の春の始めのことだった。ロングドライブが始まる季節なのに、フォートワースの町は前年の不況の影響を受けて、どことなく活気がなかった。
「富三郎、実は去年の暮れからずっと考えていることがあるんだ」
「あらたまって何ですか」
「私たちは牛がたくさんいるテキサスから鉄道駅のある町まで運んで金を得ている」
「その通りですね。それが何か?」
「もっと遠くまで牛を運んだら、もっと大きなことができると思わないか」
「どういう意味ですか」
「テキサスロングホーンの肉は美味い。価値があるということだ」
「そうですね」
「横浜の肉屋がいい肉牛を手に入れるのに苦労していたことは知っているだろう」
「なんで横浜の話を持ち出すんですか?もっと遠くって、まさか」
「そう、太平洋を渡って日本まで運んだら、テキサスの牛は大変な価値になるに違いないと思い立ったんだ」
「太平洋……。気は確かですか。仙之助さん、まったく、あなたって人は」
富三郎は呆れたような表情で笑った。
「真面目な話だよ。鉄道には貨車がある。牛を載せてカリフォルニアに行くことは難しいことじゃない。東に向かうか西に向かうかの違いでしかない」
「そりゃあ、そうですけど」
「サンフランシスコからは郵便汽船に牛を乗せる」
「本気で言っているんですか」
「もちろんだよ。トレード・ボスのサムには、今度のロングドライブでアビリーンまで行ったら、牛を五、六頭ばかり格安に譲り受けたいと話をしている。ものの数じゃないから給金の足しにくれてやると言ってくれた」
「牛を連れて太平洋を渡るって話もしたんですか」
「まあね」
「何と言っていましたか」
「呆れて笑っていたよ」
「ハハハハ、ハハハハ、カウボーイだって呆れますよ。牛を連れて太平洋を渡る奴なんて、仙之助さん以外にいませんよ」
「他に誰も考えないから商機があるんだよ」
仙之助はいたって真面目な表情で答えた。
「本当に牛を日本に連れ帰る気ですか」
「もちろんだよ。富三郎も手伝ってくれないか」
仙之助のとんでもない思いつきを一番面白がったのがジムだった。
ロングドライブの終着地であるアビリーンからカリフォルニアに向かう大陸横断鉄道に乗るには、ネブラスカ州のオマハまで行く必要がある。すると、ジムは気安く、アビリーンからオマハまでチャックワゴンで一緒に行ってやると言い出した。
オマハは、仙之助と富三郎が伊藤博文の一行と別れた交通の要衝だった。
最初にアビリーンをめざしたときは、荒野を馬やチャックワゴンで旅することなど想像もつかなかったから、セントルイス経由で開通したばかりの鉄道で到着したのだった。二年の月日が流れ、二人はすっかり一人前のカウボーイになっていた。
フォートワースからのロングドライブでアビリーンに到着した仙之助は、トレール・ボスのサムから約束より多い十頭の牛を譲り受けた。全部船に乗せられなければ、サンフランシスコで売ればいいと言われた。テキサスの牛は、どこでもそれなりの値段で取引される。貨車の値段も多少数が増えても変わらないはずだとサムは言った。
「ジョンセン、本当にこいつらを船に乗せて太平洋を渡るのか」
「もちろんです。テキサスロングホーンを日本でも有名にしたいんです」
「ほお、勇ましいことを言いやがる。」
ジムが仙之助の肩を抱きながら、サムとの間に入って言う。
「ジョンセンは太平洋で捕鯨船に乗っていた男だぞ。クジラを捕るのに比べたら、牛を船に乗せるなんぞ、造作もないさ。なあ」
富三郎も彼らの勢いに押されて、サンフランシスコまでの旅の同行の覚悟を決めたようだった。牛を引き取って、最後の夜をアビリーンで過ごした。
オマハまで二人を送り届けた後、ジムは懐かしのブルズ・ヘッド・サルーンで、また働くことにしたらしい。その夜もカウンターに入って酒や料理を準備していた。
「お前らといい夢を見させてもらったよ。ジョーイも天国で、いや天国に行っているかどうかわからねえが、同じ気持ちだと思うよ。お前らがいなかったら、俺たち死に損ないがロングドライブに行くことはなかったさ」
「私たちこそ、何も知らずに牛の町に来て、もしジョーイとジムに出会えなかったら、カウボーイになんてなれなかったです」
「ハハハハ、トミーはともかく、馬もろくに扱えなかったジョンセンが、いっぱしのカウボーイになるとは思わなかったぜ」
「ありがとうございました」
「礼なら天国のジョーイに言ってくれ」
「はい……」
「おい、湿っぽい表情をするな。牛のロングドライブに加わる奴はごまんといるが、牛のロングクルーズを企てる奴なんか、他にいやしねえ。冒険への選別だ」
そう言って、ジムはウィスキーのグラスを仙之助と富三郎の前においた。
一八七四年のオマハは大陸横断鉄道の要衝ではあったが、牛の町ではなかった。後に大規模な食肉加工工場が建設されるが、それは一八八〇年代になってからのことである。
仙之助と富三郎とジムは、十頭の牛を引き連れてオマハのユニオン駅に向かった。
東海岸と結ぶ鉄道はここが終着駅で、乗客はユニオンパシフィック鉄道に乗り換える。ロングドライブで到着したカウボーイたちが我先にと数多の牛を貨車に積み込む喧噪に包まれたアビリーンの駅とは様子が違った。
牛を連れた仙之助たちは好奇の目で見られた。西海岸に向けて牛を運ぼうとする者などいなかったからである。気圧されそうになる仙之助に代わって、交渉役を買って出たのがジムだった。格安の料金で十頭の牛を手際よく貨車に積み込んだ。
「ありがとうございました」
「助けてやれるのはここまでだ。あとは首尾良くやれよ」
「はい、どうか元気でいてください」
「どうせ俺は、死に損ないの老いぼれだ。老い先短いのはわかっている。でもな、悔いはないさ。人生の最後にお前たちに大きな夢を見せてもらったからな。お前たちこそ、達者で行けよ。まだ旅は長いからな」
ジムはそう言うと、かわるがわる仙之助と富三郎と抱擁をした。そして鉄道の出発を待たずに不自由な手でドナの手綱をとってチャックワゴンを出発させた。
牛を追ってきたイチだけは牛と一緒に貨車に乗せて、仙之助と富三郎は三等車に乗り込んだ。プラットフォームには、もう手を振って別れを惜しむ相手もいない。
富三郎がぽつんと言った。
「長い夢を見ていた気がしますね」
ジムは夢を見させてもらったと言ったけれど、仙之助たちにとっては牛の町やチザム・トレールでおきたすべての出来事が夢だったように思える。
「夢じゃないさ。貨車には牛が乗っている」
「そうですね」
「富三郎は、本当はカウボーイをしていたかったんじゃないのか」
「私がそう言ったら、仙之助さんはどうしましたか」
「いや……」
言いよどむ仙之助に富三郎が言った。
「もしかして……、これが自分の天職かもしれないと思ったこともありました。牛を日本に連れて行くという話を聞いた時は呆れもしました。でも、だんだんにもうひとつの夢を追いかけるのも悪くないと思うようになりました」
「もうひとつの夢か」
「誰も思いつかない突拍子もない夢ですよ」
出発の汽笛が鳴り、列車が動き始めた。
オハマを出発した大陸横断鉄道はネブラスカ州の荒野を西に向かう。遠い記憶の奥にあった風景が巻き戻されていくような感覚があった。
「この風景を見たのは、二年前の春だったかな」
仙之助は感慨深く、富三郎に話しかけた。
「サンフランシスコを出発したのは二月の末でしたね。シエラネバダ山脈はまだ雪深くて厳しい寒さでした」
「そうそう、一面の雪景色で……、まかないのスープが美味かったな」
「あの時、駅舎の食堂でテキサスに行って、牛で大儲けすると意気込んでいた男に出会わなかったら、牛のロングドライブに加わろうなんて思いつきもしなかったですよ」
二人は顔を見合わせて、しばし笑った。
「運命なんて、わからないものだな」
「牛を連れて、再び大陸横断をすることになるなんて、想像もしませんでしたよ」
富三郎は仙之助を小突いて、さらに笑った。
二年前の大陸横断とは一ヶ月も季節は違わなかったが、天候に恵まれたこともあり、シエラネバダ山脈はだいぶ春めいていた。牛が寒さにやられることもなく、旅は順調だった。難所のサミット駅を通過すると、カリフォルニアはもう間近である。
到着が近くなってくると、仙之助は、オークランドの駅に着いてからのことが気がかりになってきた。テキサスでは、十頭の牛なんてものの数ではなかったが、サンフランシスコ行きの蒸気船に乗り継ぐことを考えると、果たして十頭もの牛を乗せることができるのだろうかと不安になってくる。
仙之助と富三郎は、長い桟橋とつながったオークランドの駅に降り立つと、まずは貨車から牛を降ろした。一頭ずつ、慎重に健康状態を確かめる。このあたりの牛の扱い方は、ロングドライブの経験で身につけたものだった。
すると、ひとりの男が仙之助に話しかけてきた。
「おい、いい牛だな。テキサスから来たのか」
「そうだとも。最上級のテキサスロングホーンだよ」
「お前、どうして東海岸に運ばないで、カリフォルニアに来たのかい。こっちのほうが遠かろう」
仙之助が返事に躊躇していると、富三郎が答えた。
「太平洋を渡って牛を日本に運ぶつもりだからさ」
「太平洋だって?おいおい、気は確かか。こいつらを郵便汽船に乗せるのか」
「もちろんだとも」
「そんな絵空事みたいなことはやめて、俺にこの牛を売らないか」
「そういうわけにはいかないさ」
先にきっぱりと断ったのは富三郎だった。
牛を売ってくれと声をかけた男に背を向けた富三郎の後ろで仙之助が口を開いた。
「いくらで買い取るつもりだ」
富三郎は驚いて、仙之助の顔を見た。男は、値踏みするように牛の体を撫でて、しばらく考え込むと答えた。
「一頭五〇ドルでどうだ」
テキサスでの価格は一頭四ドルが相場だったから、十倍以上の価格だった。当時、東海岸の市場でも牛の価格は、おおむねテキサスの十倍で売却できた。仙之助は、餞別もかねて、相場よりさらに安い価格で買い取ってきたから相当の儲けになる。
富三郎は慌てた様子で言った。
「仙之助さん、何を言い出すんですか。牛を売るなんて」
「もちろん全部は売らないさ。十頭を連れ帰るのは容易なことじゃない。船賃もいくらかかるかわからない。確実に日本に連れていくためには、少し頭数を減らしたほうが得策じゃないかと考えたんだ」
「なるほど」
しばらく二人のなりゆきを見守っていた男が口を開いた。
「どうだい牛を売る決心はついたかい?」
「うーん、そうだな。全部は売れない」
「どういうことだ?」
「牛を連れて太平洋を渡る決心は揺るがないからだ」
「何頭ならいいのかい。半分の五頭か?」
「いや……」
仙之助は、しばらく考え込んだ。
「富三郎、どう思う?」
「そんな大事な決断、私にはできませんよ。仙之助さんが決めて下さい」
さらにしばらくの間をおいて、仙之助はおもむろに答えた。
「三頭なら売っていい」
「おいおい、たったの三頭かい。けちくさいなあ。七頭も船に乗せるって言うのか」
「そうだ」
「しょうがねえなあ。でもまあ、テキサス産の上等な牛だからな。三頭でもいいだろう。貰うことにするよ」
「一頭五〇ドルですね」
「けっ、覚えていやがる。十頭ならと思って値を弾んだが、三頭じゃなあ」
「それはないですよ。一頭五〇ドルと聞いて売ることにしたんだから」
「わかったよ」
仙之助はほっとした笑顔を浮かべた。
貨車から降ろした牛は、幸いどれも健康だったので、仙之助は男に好きな牛を選んでもらい、約束の一五〇ドルを受け取った。
到着した鉄道に接続する蒸気船は、すでに出発していた。どうしたものかと思っていたところ、背後から突然、日本語で話しかけられた。
「もしや、日本のお方ではありませんか」
仙之助と同じくらいの年格好の身なりの良い青年が立っていた。
「はい、そうですが」
「日本語でお話しされている声が耳に入ったもので。立ち聞きなどして申し訳ありません。私は浜尾新と申します」
「浜尾さん……ですか。私は山口仙之助と申します」
富三郎も慌てて名乗った。
「私は牧野富三郎と申します」
「牛……の取引をされているのですか」
「はい、何と言いますか……。この牛は日本に連れて帰ろうと思っております。三頭を手放したのは、残りの牛の船賃の足しにしようと思った次第でして」
「ほう、日本に、ですか」
「はい、ところで浜尾さんは?」
「自分の素性も話さないうちに、あなたさまの詮索をするとは失礼なことでした。申し訳ありません。私は留学生です」
仙之助は羨望のまなざしを向けた。二年近いカウボーイ生活で忘却していたが、使節団の従者、同じく使節団に同行していた留学生たち、彼らのような立場に憧れて太平洋を渡り、大陸横断したことをあらためて思い出した。仙之助の心内に気づいたのかどうかはわからないが、浜尾は言葉をつないだ。
「いや、留学生と言っても、実は、通っていた学校がなくなってしまいまして。今は浪人生活と言いますか……」
「学校がなくなった?どういうことですか」
「ご存じかどうか、昨年の九月にオークランドは大火に見舞われましてね」
「その頃はカリフォルニアにいなかったので存じませんでした」
「私の留学先の学校が全焼してしまったのです」
「それは災難でしたね」
「幸い校舎を貸してくれるという大学はあったのですが、火事の騒動で教官たちが次々と辞めてしまい、授業もなくなってしまいまして。どうしたものかと途方に暮れておりました。そうなると望郷の念が募りまして、つい桟橋に足が向いてしまった次第です」
前途洋々の留学生にもこんなことがおきるのだろうか。仙之助は、率直な物言いをする浜尾新という青年に親近感を抱いた。
浜尾新は一八四九(嘉永二)年の生まれ、仙之助の二歳年上だった。オークランドで出会った時は二十五歳。但馬豊岡の武士階級の出身で文部省から米国に派遣されていた。
大火で焼失してしまった学校というのは、オークランド・ミリタリー・アカデミーと呼ばれた西海岸で最初の兵学校である。創業者のデイビット・マクルーアの名前をとって、マクルーア・ミリタリー・アカデミーと呼ばれることもあった。兵学校といっても、マクルーアのほかに教官は五人だけ。多分に私塾のような学校だった。
もっとも浜尾新が文部省に出仕する前、豊岡藩から派遣されて学んだ慶應義塾も、彼が入塾した一八六九(明治二)年当時、十人ほどの塾生しかいなかった。だから浜尾は留学先として、とりたてて違和感を覚えることはなかった。ところが、大火をきっかけに状況が一変する。日本への通信は郵便汽船のみが便りだった時代、後ろ盾もない浜尾は途方に暮れてしまった。帰国の算段をしようと思っていた矢先、偶然にも出会ったのが仙之助と富三郎だったのである。
「あの……、牛のことをおたずねしてもよろしいですか」
浜尾は、おずおずと切り出した。
「牛に興味がおありですか?」
「いや、私は全くの専門外ですが、この立派な牛どもはどこからお連れになったものかと思いまして。鉄道の貨車に乗せてこられたのですよね」
興味津々に浜尾は聞いた。
「鉄道に乗せたのはネブラスカのオマハですが、牛どもの故郷はテキサスですよ」
「テキサス?」
浜尾には馴染みのない地名だった。
「牛の王国です」
「ほう、牛の王国ですか。それにしても、ずいぶんと立派な角ですなあ」
「テキサスロングホーンという種類の牛で、肉も大変に滋味があります」
「日本にはいない牛ですね」
「もちろん。日本どころか、カリフォルニアにもいませんよ。東海岸にもいない。だから高値で取引されるのです」
「なるほど。お二人はその……、テキサスに牛を買い付けに行かれたのですか」
「いや、牛のロングドライブに携わっていました。テキサスの草原や牧場からタダ同然の価格で仕入れた牛を鉄道駅のある町に連れて行って売却するのです。何千頭もの牛の隊列をカウボーイたちが先導する。それが牛のロングドライブです」
「カウボーイですか。その言葉は聞いたことがあります。もしかして、お二人は、そのカウボーイだったのですか?」
「まあ、そんなところです」
浜尾は憧れを込めた表情で、仙之助と富三郎の顔を見て目を輝かせた。
「もしかして、その帽子もカウボーイの装束なのですか?カリフォルニアでも見かけることはあるのですが」
浜尾はカウボーイハットを珍しそうに見上げてたずねた。
「そうです。この帽子は強い日差しや雨風除けになるだけでなく、水を汲むバケツ代わりにもなる。大変有用で、カウボーイにとって……、魂のようなものです」
仙之助の説明に富三郎が付け加えた。
「仙之助さんのこの帽子は、私たちを鍛錬してくれたカウボーイの形見です」
「その方は、亡くなったのですか」
「旅の途中で病が悪化して、何もしてあげられませんでした。ジョーイがいなければ、私たちはカウボーイになっていなかったでしょう」
「富三郎はともかく、馬乗りの心得もなかった私がまがりなりにもカウボーイになれたのは、ジョーイのおかげでした。そう、これはジョーイの魂ですね」
仙之助は、カウボーイハットを脱いで愛おしげに浜尾に見せた。
「ところで、牛の、ロングドライブですか、それについてもう少し教えてもらえませんか。牛のロングドライブが金になるから、カウボーイという仕事が生まれたのですか」
「そういうことでしょうね。牛のロングドライブが金にならなければ、カウボーイという職業は成り立ちません」
富三郎に続いて仙之助が答えた。
「牛のロングドライブは大陸横断鉄道が開通してから盛んになったようです。中西部の起点となる鉄道駅があるところを牛の町と呼ぶのですがね、私たちが拠点としていたのもアビリーンという牛の町でした。そこから東海岸の大都市に牛が運搬できるようになり、一攫千金を夢見る者たちが牛の町に押しかけるようになりました」
「かつてのゴールドラッシュの再来が牛のロングドライブなのですか」
「そう、まさにそうです。カウボーイは遅れてきたフォーティーナイナーズなのです」
「ああ、一八四九年に金鉱が発見された時に集まった者たちの呼び名ですね」
「日本人にもフォーティーナイナーズがいたことはご存じですか?」
「異国への渡航は厳しく禁じられていた時代ですよね?」
「ジョン万次郎殿ですよ。金で帰国資金をまかなったそうです」
仙之助は、伊藤博文と大陸横断の旅で万次郎がフォーティーナイナーズだった話をしたことを思い出して得意げに語った。
「開成学校で英語教授をしておられる中浜万次郎殿のことですか。私はあの方の教本で英語の初歩を学びました」
「私もそうです。あの本が海の彼方への扉を開いてくれました」
「幕末に英語を学んだ者にとって、唯一の道標でしたね」
仙之助は同級生に会ったような懐かしさを感じ、浜尾にさらなる親近感を覚えた。
「ところで、お二人はどういう経緯でカウボーイに?」
浜尾に核心の話を振られて、仙之助と富三郎は顔を見合わせた。先に口を開いたのは富三郎だった。
「私どもは、岩倉具視使節団の副使でおられる伊藤博文殿の従者でした」
「あの使節団の?」
「使節団のことをご存じなのですか?」
「もちろんですよ。でも、なぜ従者からカウボーイに?」
仙之助が返事に窮していると、富三郎がまた先んじて口を開いた。
「仙之助さんは、万次郎殿と同じ捕鯨船に乗っていたのです。そんな経験を持った者はそうはいない。使節団の従者でいるよりも、この国を興隆させている牛で人生を切り拓いてみよと伊藤殿に促されたのです」
「富三郎さん、あなたも捕鯨船に?」
「いえ、私は明治元年にハワイ王国に向かった移民団の総代でした」
「ハワイ王国の移民団?それは存じませんな」
「お国の事業ではありませんでしたから。契約期間を終えて、サンフランシスコに来た次第です。仙之助さんとは旧知の間柄でして、こちらで再会し従者に加えて頂きました」
「従者と申しましても、緊急帰国することになった伊藤殿のお供をした次第でして」
仙之助は、意気揚々と語る富三郎を牽制するように付け加えた。
「牛で人生を切り拓いてみよとは興味深いことを伊藤殿もおっしゃいますね」
「その時は深く考えもせず、好奇心にまかせて牛の町をめざしたのですが、カウボーイになって牛のロングドライブを続けるうちに、伊藤殿の言葉の真意を考えるようになりました。たぶん、それは単に一攫千金ということではなく、何か新しいことを成して、お国の役に立つことではないのかと」
「そのために牛を連れて帰国するということですか」
「はい。テキサスの牛は東海岸や西海岸でも価値があります。日本に持ち帰ればどれだけの価値になるか。その牛で牧畜業を興そうと思っております」
「ほう、牧畜業ですか」
浜尾の顔にぱっと光が差したようだった。富三郎が言った。
「牛のロングドライブをするカウボーイはいくらもいますが、牛のロングクルーズを思いつくなんて、仙之助さんしかいませんよ」
しばらく考え込んでいた浜尾が意を決した表情で言った。
「その……、牛のロングクルーズに私も加えては頂けないでしょうか。牛のことは何もわかりませんが、懸命にお手伝い致します」
思いがけない申し出に仙之助と富三郎は再び顔を見合わせた。
少しの間をおいて、即答したのは富三郎だった。
「それは心強い。なあに、牛の扱いは私が教えますよ」
「本当ですか。同行してよろしいのですか」
「もちろんですよ」
仙之助は急な展開に戸惑いながら浜尾にたずねた。
「あの……失礼ながら、学問を諦めてしまわれてよろしいのですか」
「学校が再開する目処もないですし、異国の地で無為の時間を過ごしていても仕方ない。学問は、帰国してもできます」
浜尾はきっぱりとそう言うと、身の回りのものをまとめて旅支度をしてくると言い残し、寄宿先に戻っていった。
オークランドからサンフランシスコに向かう蒸気船は、翌朝一番の便を待つしかなかった。仙之助と富三郎は、牛に水をやり干し草を食べさせた後、桟橋のベンチで夜明けを待つことにした。
「思いがけない展開になったな」
仙之助は富三郎に声をかけた。
「私があの男を引っ張り込んだことを怪訝に思っているのではないですか」
「どうしてそんなことを聞く?」
「戸惑ったような顔をしていたからです」
「いや……」
「仙之助さんは正直だから」
「実は、ご相談したいことがあります」
「あらまって何だい?」
「浜尾という男に牛の扱い方を教えて、サンフランシスコで牛を郵便汽船に乗船させる算段がついたら……」
「出発前に何かすることがあるのか」
「テキサスに……、戻りたいと考えています」
「えっ?」
仙之助は、富三郎の言葉の意味することがうまく飲み込めずに絶句した。
「そんな……、何のためにここまで牛を連れてきたんだ」
「仙之助さんはあの男と一緒に牛を連れて海を渡って下さい」
「…………」
「ずっと考えていたんです。自分にはカウボーイが性に合っていると。でも、仙之助さんをひとりでおいて行く訳にはいかないと思っていました。ところが、思わぬ旅の道連れがあらわれた。最後にわがままを言わせてもらえませんか」
仙之助はあらためてカウボーイとして過ごした日々を振り返った。
乗馬が下手くそな自分と違い、自在に馬を操り、巧みに牛の群れを追う富三郎の姿は実に精悍(せいかん)だった。水を得た魚のようでもあった。武士出身の彼にとって、遊郭の番頭や移民団のとりまとめは適職とは言いがたかったのだろう。その点、カウボーイという仕事には、どこか武士と共通点があったのかもしれない。
「富三郎の気持ちも考えずに無理強いをしてしまったのだな」
仙之助は神妙な表情でつぶやいた。
「本当に嫌だったら一緒にここまで来ませんよ」
「…………」
「牛のロングクルーズを思いついた仙之助さんの発想には感服しました。本当ですよ。そんなこと誰も思いつかない。それは本心です」
「…………」
「だから腹をくくって帰国するつもりでした。何度も言いますが、嫌々ではなくてね。でも、あの浜尾という男があらわれた時、ふとカウボーイへの未練が頭をもたげてしまったのです。気がついたら彼を誘っておりました」
富三郎はそう言って笑った。
「そうか……、未練か」
「まあ、そんなところです」
仙之助は、ジョーイの形見のカウボーイハットを脱いだ。
「カウボーイに人生を賭けるというのなら、ジョーイの魂も連れていってくれ」
「私には自分の汗がしみこんだハットがあるから大丈夫です。ジョーイの魂は仙之助さんのお守りにして下さい。それに……」
「なんだ?」
「浜尾という男に牛の扱いをどうにも任せられなかったら、その時は、私も同行して船に乗ります。大事な牛どもを死なせる訳にはいきません」
「でもまあ、賢そうな男ではないか」
「はい、ですが、賢い仙之助さんが馬乗りは下手なように、誰にでも得手不得手はありますから」
「それを言われると言い返せないじゃないか」
仙之助と富三郎は、お互いを小突きながら笑い合った。
牛のロングドライブで野営する時と同じように、二人は交代で仮眠をとった。
夜が明けるとまもなく、旅行カバンを持った浜尾新が桟橋にやってきた。
金色の朝陽の先に三人の陰が長く延びる。不安と期待が入り交じったような表情の浜尾に仙之助は、初めて捕鯨船に乗り込んだ日の自分を重ねていた。
なんとか牛を乗船させると、朝一番の蒸気船は静かに桟橋を離れた。
一八七四年当時、サンフランシスコと横浜を結ぶ郵便汽船は、おおむね月に一往復あった。船会社に問い合わせると、四月十八日に出発のアラスカ号が直近だとわかった。
出発間際だったが、スティアリッジと呼ばれる下等船客の予約が少なく、彼らの区画の一部を牛の運搬用にあてがってもらうことで交渉が成立した。
アラスカ号は、一八七二年に横浜港で焼失したアメリカ号に代わって就航したもので、最も新しい船だった。その便には、通常勤務する船員のほかに別の船への交代要員ということだったのか、大勢の船員が乗船すると知らされた。
浜尾新は、テキサスロングホーンという珍しい牛そのものに興味があったようで、汚れ仕事も厭わず、何事も手際が良く、飲込みが早かった。
かつてはスティアリッジで太平洋を渡った仙之助だったが、今回はそれなりに懐も豊かであり、浜尾と共に二等船室を予約した。本来、上級船客はスティアリッジと行き来はできないのだが、牛の世話のため行き来することも承諾してもらった。
いずれにしても、たまたまの偶然で、船員ばかりで乗客の少ない便であることが幸いしたと言えた。牛の飲み水を確保してもらう約束をとりつけ、長旅に備えて大量の干し草も積み込んだ。
富三郎が同行しないことを浜尾に告げたのは出発前夜のことだった。
仙之助は、年かさで自分より牛の扱いに慣れた富三郎が同行しないことで浜尾が動揺することを心配したが、思いのほかあっさりとしていた。
出発前夜に気持ちが揺れたのは、むしろ仙之助のほうだった。
富三郎とはさまざまな行き違いもあったが、この数年は寝ても覚めても一緒だったし、なにより富三郎がいなければ、カウボーイになることもなかったし、こうして牛を連れ帰るなんて思いつくこともなかった。
これまで何度も別れては再会してきたが、今度こそ本当の別れになるのだろう。サンフランシスコならともかく、遠いテキサスから便りをもらうのは難しいに違いない。
「横浜に着いたら粂旦那によろしくお伝え下さい。富三郎はカウボーイになって草原を駆け回っておりますと」
「達者で暮らせよ。一人で心細くはないか」
「アビリーンに戻れば、顔なじみの仲間はいくらもいます。ジムにはちゃんと伝えます。ジョンセンは牛と一緒に太平洋を渡っていったとね。カウボーイとしてやっていける自信があるからこそ、テキサスに戻るのです。心配は無用です」
「馬乗りの下手な私とは違うよな」
「そうですよ」
富三郎は普段と変わらない笑顔で言った。
仙之助もいつものように富三郎を小突いて笑おうとしたが、どうにも鼻の奥がツーンとなり、涙がこぼれてくるのをおさえることができなかった。