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2026年3月22日更新

仙之助編 二十四の二

 一八七一(明治四)年に慶應義塾が移転した三田は、小山台、三田台と呼ばれた南北に伸びた台状の土地にあり、小高い立地から三田の山と呼ばれた。江戸幕府が開かれてから武家屋敷が広がった界隈である。維新後、多くの屋敷は明治政府に没収されたが、そのひとつが肥前島原藩松平家の中屋敷だった。政府や東京府につながりを持つ福澤諭吉が働きかけ、慶應義塾の拝借地となったのが移転の経緯である。
 一万一八五六坪の中屋敷は、移転前の鉄砲洲の実に三〇倍の規模であった。
 翌明治五年、東京市内の拝借地を拝借人、もしくは縁故ある者に払い下げるという政府の方針が示される。何としてでも土地を手に入れたかった福澤は、東京府の担当役人のもとをたずね、払い下げが決まったらいち早く知らせてほしいと頼み込んだ。
 数日後、払い下げの公示が出たと連絡が入るやいなや、福澤は代理人を東京府庁に出頭させ、書類も揃っていなかったのに無理矢理、上納金を受け取らせたのだった。
 福澤の無謀な先走りは結果として功を奏する。まもなく島原藩の松平家が払い下げを求めてきたからだった。福澤は頑として求めに応じなかった。こうして三田の山は、慶應義塾の基盤となったのである。
 ゆるやかな坂をのぼっていくと、武家屋敷そのままの黒塗りの門があった。
 仙之助は不安と期待が入り交じった気持ちで、同伴してくれた浜尾新に話しかけた。
「福澤先生はどのようなお方なのでしょうか」
「前人未踏の新しい分野に挑戦し、困難に耐えて開拓する使命感と勇気を尊ぶお方です。自我作古と先生は表現されます。まさに仙之助さんの生き方そのものですね」
 そう言って浜尾は笑った。
「からかわないで下さいよ」
「いやいや、本当のことですよ」
 仙之助の緊張はいよいよもって高まった。
「『学問のすすめ』は読まれましたか」
「い、いや……。重要な書物なのですか」
「先生のお考えがよくわかる書物です」
「…………」
 なぜ教えてくれなかったのかと浜尾を攻める言葉が出かかったが、福澤諭吉と慶應義塾の名前を聞いておきながら、気づかなかった自分に否があると言葉を飲み込んだ。帰国後、牛とウメコのことで頭がいっぱいで準備を怠っていたのは他ならぬ自分だった。
「明治五年の出版ですから、仙之助さんはカウボーイで活躍されていた頃のことです。なあに無理からぬことです」
 次の瞬間、浜尾の言葉に突然、後ろから反応する人物がいた。
「おい、カウボーイとは何の話だ?」
 振り返ると、好奇心に目を輝かせた塾生というには年かさの人物が立っていた。