
2025年12月28日更新
仙之助編 二十三の二
浜尾新は一八六九(明治二)年九月、豊岡藩の遊学制度により慶應義塾に入塾した。
元号が明治にあらたまったのが一八六八年の九月八日であるから、そのちょうど一年後のことになる。
福澤諭吉が出身の中津藩の命により、築地の鉄砲州にあった中津藩中屋敷内に蘭学塾を開いたのが一八五八(安政四)年の十月とされている。慶應義塾の起源である。
江戸時代、鎖国政策下において、貿易を目的として唯一、長崎の出島に出入りを許されていたのがオランダだった。知識人たちは、異国の情報を得る唯一の手段として、蘭学、すなわちオランダ語を学んだ。福澤も例外ではなかった。
同年七月、日米修好通商条約に基づき、神奈川(横浜)が開港になった。好奇心旺盛な福澤は開港地の横浜に赴き、自身の蘭学の力試しを試みたが、全く通用しなかった。異人たちの話す言葉はもっぱら英語だったからである。
日本が国を閉ざした十七世紀、黄金時代を謳歌していたオランダは、十八世紀以降、植民地獲得や経済成長においてイギリスに追い抜かれ、衰退していく。長い鎖国の間に世界情勢が変わっていたのだ。以来、福澤は独学で英語を学ぶことを決意する。
一八五九(安政六)年の終わり、日米修好通商条約の批准交換のため、幕府は使節団の派遣を決定する。福澤は知人を介して、軍艦奉行の木村摂津守に従者となる機会を得た。
使節団が出発したのは新暦一八六〇年の一月のことである。使節団の一行はアメリカ軍艦のポーハタン号に乗船したが、随行艦として派遣されたのが咸臨丸であった。
咸臨丸には、艦長の勝海舟、軍艦奉行の木村摂津守と従者の福澤諭吉、そして通訳のジョン万次郎も乗船していた。福澤はここで万次郎と出会ったのだった。
福澤の英語を学ぶ意欲は、この旅を通してさらに高まった。この時、万次郎と共にウェブスター大辞典を購入して帰国したとされる。
蘭学塾を英学塾に転向したのは一八六三(文久三)年のことだった。
渡米の翌年、塾は鉄砲州から芝新銭座(しばしんせんざ)に移転したが、英学塾となった年、再び鉄砲州に戻っている。新銭座という地名は、寛永年間に江戸時代で最初の貨幣鋳造所が設けられ、寛永通宝が鋳造されたことに由来する。
一八六八年の初め、すなわち慶應四年、芝新銭座の有馬屋控屋敷を入手して、再び塾は鉄砲州から移転する。この時、元号にちなんで「慶應義塾」と命名された。「義塾」とは、身分にかかわらず人々が平等に教育を受けられる公共の学び舎という意味であり、英語のパブリックスクール(Public School)の訳語である。
時は戊辰戦争のさなか、上野で官軍と彰義隊の戦闘が続き、江戸中に砲声が響き渡るなか、福澤は動ずることなくウェーランド著の経済書の講義を続けたと伝えられる。
浜尾新が入塾したのは、四百坪ほどの敷地に百人ほどの塾生を収容する塾舎が建てられ、本格的な英学塾として始動した頃のことになる。時代の転換期、意欲のある若者たちが次々と集まった、慶應義塾のまさに黎明期であった。