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2026年1月18日更新

仙之助編 二十三の五

 一八七四年五月十三日は、雨模様の夜明けだった。
 まもなく船の揺れがぴたりと止んだ。太平洋郵便汽船のアラスカ号は三浦半島を過ぎて東京湾に入ったようだった。いよいよ横浜港への到着である。
 仙之助は、ジョーイの形見のカウボーイハットを被って甲板に出た。
 岩倉具視使節団を追いかけて横浜を発ったのは一八七二年一月のことだったから、二年余りの年月が流れたことになる。捕鯨船に乗ってハワイに向かった航海も波瀾万丈だったが、このたびの旅も思いもかけないことの連続だった。
 帽子のつばにそっと手をかけ、鉛色の空を見上げて仙之助はつぶやいた。
「ジョーイ……、テキサスの牛を連れてきましたよ」
 ふいに背中を叩かれて、驚いて振り返ると浜尾新が立っていた。
「下船の準備をしないと。私たちはともかく……」
「大事な牛どもを下船させなければ」
 浜尾は笑ってうなずいた。
「このたびは、ありがとうございました」
「えっ?」
「お声がけ頂けなければ、オークランドでまだ途方に暮れていたかもしれません」
「そんなことはないでしょう」
「兵学校が火事で焼けて閉鎖されてしまい、学問の道半ばで帰国する決心がつかないままでいました。牛で牧畜業を興すという仙之助さんの決心に背中を押されました」
「いや……」
 牧畜業の目処などたってもいない仙之助は目をふせた。
「容易なことでないことはわかります。でも、テキサスの貴重な牛を日本に持ち帰ったことは先見の明です。それだけは揺るぎのないことです」
「…………」
「民部省に勧業局という役所があるのをご存じですか」
「いや、存じません」
「牧畜の先駆的な試みは居留地にあるでしょうから、仙之助さんには釈迦に説法かもしれませんが、勧業局は、農業、牧畜などの殖産興業を司る役所です。何かお役に立てることがあるかもしれません。覚えておいて下さい」
「ありがとうございます。しかと覚えておきます。そして、慶應義塾、ですね」
 浜尾は微笑んだ。
「どんな役回りが、私たちに待っているかはわかりませんが、異国で見聞したことで何かを成すことが使命だと思っています。牛と太平洋を渡ったご縁は一生ものですよ」
「浜尾さんを呼び込んだ富三郎にも礼を言わなければならないですね」
 二人は友情を確かめ合うように西洋式の握手をした。