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仙之助編 十四の一から十四の十二まで

仙之助編 十四の一

 一八六九年七月下旬、仙之助がクレマチス号で航海し、マッコウクジラと挌闘していた頃、牧野富三郎が再三送った救出嘆願書に対して、ようやく政府が具体的に動き始めた。

 ハワイ王国に派遣する政府使節の正使として、薩摩藩出身の上野敬介景範(かげのり)が選ばれたのである。後に初代の横浜税関長、イギリス公使などを歴任する上野は、当時、弱冠二十五歳ながら、語学に長け、外国との交渉に実績があった。命じられた身分は特命全権公使に相当する。随員に選ばれた年上の三浦甫一も経験豊かな人物だった。

 同年十月三十一日、上野は外輪船ジャパン号で横浜を発った。晩秋の太平洋は荒れたが、十一月十七日、サンフランシスコに無事到着した。横浜からハワイに行くには、定期航路はサンフランシスコ経由しかなかったのと、事前交渉のためだった。

 外輪船が金門湾に入ると、砲声がとどろき、桟橋には多くの人たちが整列して歓迎した。特命全権公使の使節は、国賓待遇で迎えられたのだった。丁髷を結い、羽織袴に大小の刀を刺した上野は、堂々たる武士の風格を備えていた。

 随員の三浦とは、サンフランシスコで合流した。一足早くサンフランシスコに入った彼は、髷を落とし、散切りの髪を後ろにまとめていた。

 上野と三浦が帆船イサン・アルレン号に乗船し、出発したのは、同年十二月五日。再び二十日余りの太平洋を渡る船旅で、ホノルル港に到着したのは、クリスマスが終わり、暮れも押し迫った十二月二十七日だった。

 仙之助が署名をした最初の嘆願書から、ちょうど一年の月日が流れていた。

 牧野富三郎は、桟橋に立ち、感慨深い思いで使節一行の到着を出迎えた。コウラウ耕地からも数人の代表者が駆けつけていた。

 サイオト号でホノルルに到着した日のことが遠い昔のように思えた。

 あの時よりも、日本からの使節を迎える今の方がよほど盛大な歓迎だった。仲間を失って、ようやく自分たちの存在が認められたことに富三郎は複雑な心境だった。だが、ハワイ王国の歓待は、問題の解決のためにはありがたいことだった。

 使節の宿舎には、ヌアアウ通りにあるエマ女王の離宮があてられた。

 その年、イギリスのヴィクトリア女王の次男エディンバラ公爵が国賓としてハワイを訪れた際、部屋を増築して宿舎にした宮殿である。公爵の滞在した部屋がそのまま彼らの居室となった。まさに最大級の待遇ということだろう。

 桟橋では、上野と三浦はハワイ王国の政府関係者に取り囲まれ、富三郎は彼らに近づくことも声をかけることも出来なかったが、その日の夕方に近くになって、あらためて桟橋に出迎えた移民たちと共に離宮での面会を許された。

 離宮は、到着後の遠足で仙之助と共に見物に出かけた思い出の場所でもある。その後も、コウラウ耕地を往復するたびに前を通った。だが、富三郎は一度も中に入ったことはなかった。このようなかたちで足を踏み入れる日が来るとは思わなかった。

 瀟洒な建物を見上げて、富三郎はふうと深呼吸をした。

仙之助編 十四の二

 エマ女王の離宮は、白亜の外観と同じく、館内も白を基調にした空間に優雅な調度品がおかれた、噂に違わぬオアフ島で最も美しい建物だった。富三郎が仲間たちと招き入れられた部屋は、赤い絨毯が敷き詰められ、豪華なシャンデリアが煌めく、とりわけ豪奢な部屋だった。部屋の奥に上野敬介景範正使と随員の三浦甫一が椅子に座っていた。

上野敬介景範

 富三郎は、どう挨拶したものか逡巡していたが、彼らの羽織袴に大小の刀を差した正装を見て、ごく自然に絨毯の上に正座し、深々と土下座をした。
「表を上げよ」

 上野の言葉に従い顔を上げた富三郎は、あらためて顔を見て、その若さに驚いた。
「総代の牧野富三郎でございます。このたびは遠路の長旅、恐縮至極にございます。二名の犠牲者を出したオアフ島のコウラウ耕地からも代表者が参っております」
「嘆願書を書いたのはお前か」
「はい」
「今回のことは、明治政府も重く受け止めておる」
「明治?嘆願書は神奈川の役所宛に送っておりましたが、新政府の世の中になったのでございますか」
「そうだ。本年は明治二年になる。お前たちが出帆したのは明治元年ということだな」

 彼らはざわざわと顔を見合わせた。富三郎を含め初めて明治の年号を聞いたからだった。
「…………存じませんでした」
「我が国の国民が他国で不当な扱いを受けるのは、新政府として看過できるものではない。その判断が下って、使節の派遣となったのだ」
「ありがたきことにございます」

 富三郎は再び深々と頭を垂れた。
「こちらの暦では年の瀬らしいが、早速、重要な接見を用意してくださるそうだ。お前たちの状況も事細かに調査しようと思っておる。采配は、富三郎に任せてよいのだな」
「はい、もちろんでございます。何なりとお申しつけ下さい」

 面会を終えて離宮の外に出ると、コウラウ山脈の方角に虹が出ていた。石造りのヴェランダから庭に降りると、草が濡れていた。富三郎たちは緊張して雨音に気がつかなかったが、面会の間、夕立が降っていたらしい。

 上野使節は、翌十二月二十八日にはハワイの外務大臣ハリスと公式に面会した。続いてアメリカ公使のピアースとも面会し、彼の配慮により、アメリカ公使館の書記が一人、使節の書記として任命された。

 二月二十九日には、カメハメハ五世に謁見し、信任状を手渡した。

 そして、暮れも押し迫った三十一日、上野使節は、外務大臣ハリスに二原則からなる要求書を手渡した。すなわち「日本移民をすべて日本に戻す」と「その一部、帰国希望の四十人程度はただちに帰国させる」という内容である。

仙之助編 十四の三

 日本の使節に対してのハワイ王国の待遇は手厚く、対応は懇切丁寧だった。

 だが、上野節の要求はすぐには受け入れられなかった。まずハワイ側と対立したのが、ユージン・ヴァン・リードの立場だった。ハワイ王国が彼を駐日ハワイ領事に任命したことは紛れもない事実だったからだ。

 これに対して、上野はハワイ王国が徳川幕府の時代に取り交わした任命は、明治新政府に対しては無効だと抗弁した。

 次いで上野は、ヴァン・リードが政府の許可しない移民を独断で送った行為は不法行為であると問い詰めた。ハワイ王国は、徳川幕府がいったん許可をして、旅券も発行したことを強調した。さらにサイオト号の出航を許可したのは明治政府であることを突きつけた。

 一方、上野は旧幕府から明治政府に日本の主権が代わったことを主張し、それにも関わらず、新政府からの新たな旅券の発給を待たず、うやむやのうちに出発したヴァン・リードの否を追究した。

 上野は、富三郎の案内でコウラウ耕地にも出向いている。

コウラウ耕地の工場

 実際に移民たちに会ってみると、帰国を懇願する者と、新しい環境に慣れて契約期間の満了までハワイにとどまって働くことを希望する者とがいることもわかった。

 年長の代表者に混じって、マムシの市こと、石村市五郎が前に進み出て、最大の要求は給料を上げてもらうことで帰国することではないと上野に直訴した。

 一年余りの年月で背丈も伸び、日焼けして筋骨たくましくなり、もはや少年の風貌ではなくなっていた。口が達者なのも拍車がかかってきた。耳学問で英語も操るようになり、ルナともめ事があると、交渉役をすることもあるという。
「一番難儀しているのは物価が高いことです」

 物価の高さは上野自身も難儀していたので、なるほどと納得した。ハワイ王国は宿舎を提供してくれたが、それ以外の経費は自腹だった。対等な交渉を進めるためには、過度に相手国の温情に甘える訳にもいかなかった。

 上野の説明によって、移民たちは初めて、幕府から新政府への政権の移行により、自分たちの旅券が失効してしまった事実を認識した。

 富三郎は、ユージン・ヴァン・リードが肩書きを詐称した悪徳商人ではなく、旧幕府との正式な取り決めで駐日ハワイ領事に任命されていたことをあらためて知り、自分の思い込みを心の奥で恥じていた。ヴァン・リードを信じながら富三郎を糾弾もしなかった仙之助のふるまいには、今さらながら頭が下がる。旅立つ彼にどうしてもっと心ある言葉をかけられなかったのか、後悔の念が湧き上がっていた。

 交渉は難航したが、一八七〇年一月十一日、ようやく合意にこぎつけた。

 即時帰国を望む四十人の名簿をまとめると同時に、残留者の待遇改善と、契約内容に違反する事項の是正をハワイ王国に約束させた。さらに契約期限満了後の帰国希望者は、ハワイの費用で送り届けることまで承認させたのである。

仙之助編 十四の四

 ハワイ政府との取り決めの調印書には、上野景範使節の希望により、駐在の米国公使ピアースと、英国総領事J・H・ウッドハウスが証人として署名した。約定が国際法とハワイの法律に抵触しないこと、またハワイ政府が承認したものであることを両者の合意の下に声明するためだった。

 慎重な物事の進め方は、弱冠二十五歳の若き外交官の手腕であり、補佐役の三浦の緻密さのなせる技でもあった。電信や電話もなかった時代のこと、定期航路もない日本とハワイの間では文書のやりとりもできない。本省との確認もままならぬ状況で、彼らは自らの判断で最善の成果を成し遂げたのだった。

 この取り決めをもって、違法渡航者とみなされた者たちは、歴史の闇に葬り去られることなく、正式に日本で最初の海外移民となったのである。

 そして、彼らは元年者と称されることになる。

 調印と声明の内容は、当事者である日本人移民たちにも広く知らされたが、これにもとづき牧野富三郎は、あらためて上野から移民頭として任命され、彼の任務をしたためた「覚書」が手渡された。

 サイオト号で横浜を発った移民たちは、不運にも命を落とした四人を除くと総勢は一五一人だった。そのうち帰国希望者は四〇人であり、残り三分の二以上の者たちが残留を希望したことになる。

 富三郎の責任は大きかった。これまでにもまして、移民たちの労働環境や生活状況を把握することが求められ、問題があればハワイの政府に直訴することとされた。月に一度は、オアフ島だけでなく、離島も含めた現地視察に赴くように定められた。
「今後のことは、くれぐれもよろしく頼んだぞ。お前だけが頼りだ」

 頭を垂れて上野の言葉を心に刻んだ富三郎は、面を上げると神妙な表情で答えた。
「かしこまりました。精一杯お役目を務めさせて頂きます」

 富三郎は、横浜を出発した時の沸き立つような気持ちが再び湧き上がるのを感じていた。仲間たちの相次ぐ死に直面し、目の前の出来事を解決することで精一杯だったが、状況が落ち着いてみると、異国に赴くことを切望した当初の感情がよみがえってくる。
「この島国は……、思いのほか、美しいところだな」

 上野は、唐突に言った。
「炎熱下での労働が厳しいことは容易に想像がつくから、物見遊山のような物言いは憚れるが、朝晩に吹く風の心地よさと、雨の後に決まって空に出る虹の美しさは忘れられぬ」
「さようでございますね」

 富三郎は、仙之助もこの風を愛したことを思い出していた。密航者として捕鯨船で太平洋を渡り、大変な苦労をしたに違いないのに、俊才の上野と同じように、自分の責務を全うしながら、ものごとの良いところを見抜く眼力を持ち合わせていた。移民たちのまとめ役は彼こそがふさわしかったのに、ここに仙之助がいないことが無念でならなかった。

仙之助編 十四の五

 一八七〇年一月二十日、重責を全うした上野景範使節の一行は、ホノルル港からサンフランシスコに向けて出帆した。桟橋には、富三郎以下、オアフ島在住の移民たちが集まって、恩人の帰国を見送った。

 移民たちの送還は、彼らの書記に任命されたフーバーに一任された。

 帰国希望者は四十人、ハワイ上陸後に生まれた二世の新太郎と、捕鯨船に助けられて、ハワイ在住だった漂流民の二人も帰国を希望し、一行に加わった。

 何らかの理由で捕鯨船に乗った日本人がハワイに流れ着くことは仙之助以外にもあったことだったのだ。仙之助が彼らと違ったのは、英語を話す乗組員として、自らの意志で、ハワイまで来て下船し、再び自らの意志で、ハワイから捕鯨船に乗り組んだことだった。

 総勢四十三人の日本人は、フーバーの計らいで、使節の帰国からほどなくして、ホノルルから直接、横浜に向かうR・H・ウッド号に乗船し、サンフランシスコ経由で定期航路に乗り継いだ使節一行より先に横浜に到着したのだった。

 その後、サトウキビ・プランテーションでの待遇や報酬が格段に向上した訳ではなかったが、ほかの外国人労働者との待遇格差はあらためられ、大きな問題はなくなった。自ら残留したのは野心と順応性のある者だったことも理由と言えた。

 最年少のマムシの市こと、石村市五郎はもちろん残留組のひとりだった。

 彼らの働いていたコウラウ耕地のワイルダー・プランテーションは、オーナーの息子の事故死をきっかけに悪い噂がたったこともあり、上野使節の来訪からまもなくして経営が立ちゆかなくなり、廃業してしまった。だが、移民としての契約はまだ残っていたので、希望者は同じ元年者が入植していたマウイ島のハイク耕地に移ることになった。

 一番に手をあげたのがマムシの市だった。

 マウイ島は、捕鯨の基地として栄えたところでもある。ホノルル以前の首都であったラハイナは西マウイにあり、ハイクはそれとは反対の東マウイにあった。ホノルルから帆船で二昼夜かけて到着したのは、マリコ・ガルチと呼ばれる切り立った崖に囲まれた入り江だった。マムシの市たちは、そこから徒歩で目的地に向かった。

 ハイク耕地は一八六一年から操業が始まったプランテーションで、コウラウ耕地にもまして、人里離れた寂しいところにあったが、工場には最新鋭の機械が設置されていた。ハワイで最初にサトウキビの精製に蒸気機関を導入したところでもある。

ハイク耕地

 元年者の契約期間が終わる年、一八七一年に工場主として着任したサミュエル・T・アレクサンダーは、のちに合流するヘンリー・P・ボールドウィンと共にハイクをさらに発展させることになる。先見の明のあった彼らは、後に次なる産業として、ハワイで最初のパイナップル・プランテーションを切り拓き、缶詰の工場を建設した。

 マムシの市は、ハイク耕地に入植していたウミウミ松こと、桑田松五郎という髭男とたちまち意気投合した。契約期間を勤め上げた後もハワイにとどまり、何か大きなことを成し遂げたい野心が、彼らを結びつけたのだった。

仙之助編 十四の六

 ウミウミ松と親しくなったマムシの市は、一旗揚げる元手を貯めるため、マウイ島のハイク耕地で懸命に働いていた。ところが、ある日、思わぬ事故に遭遇してしまう。工場の最新式の機械に彼の右足が挟まれてしまったのだ。
「うあーあ、ああーあ、い、痛い、痛い。助けてくれ」

 必死の叫びが工場に響き渡った。
 いち早く気づいたのがウミウミ松だった。
「エマージェンシー、エマージェンシー」

 機転を利かせて、工場全体に緊急事態を知らせたおかげで、マムシの市は、危うく全身が巻き込まれる前に助け出された。

 急死に一生を得たものの、骨折した右足は重傷だった。

 幸いだったのは、上野使節が取り決めをかわした以降の事故だったことだ。工場長は、医者を呼んで手当を受けさせ、まもなく、ホノルルからも牧野富三郎が駆けつけて、工場内での事故であることから、休業中の生活保障を交渉した。

 しばらくして、何とか動けるようなったが、サトウキビ・プランテーションの過酷な労働にはすぐに復帰できない。そこで、近隣で大工をしていたワーケン夫妻の家で料理人として雇ってもらうことになった。

 もちろん、マムシの市に西洋料理の心得などない。だが、コウラウ耕地で仲間が亡くなった後、富三郎と仙之助がしばしば訪ねて来ていた頃、スクールボーイの経験がある仙之助から西洋料理の基本を教わったことがあった。当時はそれを職業にすることなど、考えもしなかったが、持ち前の好奇心の強さで興味を持った。料理を覚えれば、手に入る材料で少しでもましなものを食べられるという思いもあった。コウラウ耕地の中国人コックが作る料理は油臭さが鼻をついたが、仙之助が作る西洋の卵料理は美味しかった。

 ワーケン夫妻の話は富三郎を介して持ち込まれた。
「下働きならともかく、いきなり料理人は難しかろう」

 難色を示す富三郎に、マムシの市は食い下がった。
「大丈夫です。仙太郎さんから西洋料理の手ほどきを受けています。たいしたものは作れませんが、朝食の卵料理なら任せて下さい」
「仙太郎……、そうか。あいつから習ったのか」

 一時期、ホノルルで同居していた頃、朝になると西洋式の卵料理をよく作ってくれたことを富三郎は思い出した。
「仙太郎仕込みなら、まあ、なんとかなるか」
「はい、大丈夫です。ぜひお願いします」

 マムシの市としては、プランテーションの労働に戻るより、住み込みの料理人になれるほうがずっといいと思ったのだ。もっとも、これが彼の人生を決定づける出来事になるとはこの時はまだ、予想もしていなかった。

仙之助編 十四の七

 一八七一年六月、元年者たちがハワイに上陸して三年の月日が経った。

 契約満了の日が近づくにつれ、その後も日本に帰国せず、ハワイに残りたい、あるいはアメリカ本土に渡りたいという声があがるようになる。上野敬介景範使節の来訪後も残留を希望したのは、環境にも順応し、意気盛んな者たちだったから当然のことだった。

 牧野富三郎は、これらの要望をとりまとめ、ハワイ滞在許可とアメリカ渡航許可を日本政府に申請した。上野の交渉当時には契約満了後は全員帰国が原則だったが、この頃は日布通商条約の締結を控えていたこともあり、ハワイ残留もアメリカ渡航も本人の希望次第と認められた。牧野を通して旅券申請が行われ、四三人がハワイ滞在の、四六人がアメリカ渡航の旅券を手にしたのだった。

 マムシの市こと、石村市五郎は旅券を渡されると小躍りして喜んだ。

 骨折した足の負傷も癒え、料理人としての腕も上げ、大工のワーケン夫妻にもすっかり気に入られていた。彼の気持ちとしては、もはや帰国など考えられなくなっていたからだ。
「富三郎さん、ご尽力ありがとうございます。これで何でもできますね」
「そうだな、大手を振ってハワイに滞在できる。仕事の調子はどうだ?」
「はい、順調です。どんな西洋料理だって作れますよ」
「そうか。それは頼もしいな。得意料理は卵料理か」
「お前の作るオムレツは一級品だと褒められますが、それだけじゃありません。仙太郎さんが教えてくれたもうひとつの料理も好評です」
「もうひとつの料理?」
「ステーキパイです」
「それは聞き覚えがないな」
「仙太郎さんがスクールボーイとして住み込んだ家のご主人の好物だったそうで、肉とタマネギを炒めてパイで包んだ料理です。ワーケン夫妻も、懐かしい味だと褒めて下さいました。仙太郎さんのご主人と同郷なのかもしれませんね」
「仙太郎は……、たいした奴だったな」
「私にとっては恩人です。仙太郎さんの手ほどきがなかったら今の私はありません。達者でおられるのでしょうか」
「無事に帰国していればいいが……」

 富三郎は自分自身に問いかけるようにつぶやいた。

 酒場で船員らしき男たちを見るたびに仙之助のことを思い出す。

 とりわけ捕鯨船の出入りが頻繁になるクジラの季節になると、無意識のうちに仙之助が乗船したクレマチス号を探していて、はっと我に返ることがあった。

 そんなある日のこと、富三郎のもとにひとりの船員が訪ねてきた。

 アジア系の顔をしているが、日本語を話す訳ではない。中国人なのだろうか。

 片言の英語で、富三郎の名前と住所を確認すると、握りしめていた封書を手渡した。

仙之助編 十四の八

 謎の船員がドアを叩いた時から、富三郎の胸には「もしや」という期待があったが、封書の表書きを見た途端、心臓の鼓動が高鳴った。
「牧野富三郎殿」

 英語の住所と名前の下に黒々とした毛筆で、見慣れた筆跡の日本語が記されていた。

手紙を受け取る牧野富三郎

 クジラの季節はもう終わっている。

 富三郎が怪訝そうに顔を覗き込みむと、アジア系の男は言った。
「ヨコハマから、マーチャントシップ(商船)できた」
「そうか、そうか。横浜で手紙をことづかったのか」
「ホノルルに行くと言ったらこれを渡してくれと頼まれた。お前がこの男か」
「そうだ」

 富三郎の返事を聞くと、男はにやりと笑った。

 待ちに待った仙之助からの便りだった。

 はやる気持ちを抑えながら手紙の封を開けた。薄汚れた封筒がここまでの長い道のりを物語っていた。

牧野富三郎殿
クレマチス号で小笠原諸島を経由して無事横浜に到着した。
私も父上の粂蔵旦那も達者でおるので安心してほしい。
横浜の遊郭は豚屋火事の後、吉原町に移転し、岩亀楼と神風楼は再建をなした。今や神風楼は、岩亀楼と肩を並べる大店である。
それと言うのも父上が異人の客を岩亀楼だけが独占するのはいかがなものかと注進したからだった。以来、どの店でも自由に異人の客をとることができるようになり、神風楼もおおいに繁盛している。
お前の尽力により日本から使節が派遣され、万事交渉が上手くいったことは聞いた。あらためてお前の手腕には感心しておる。
まもなく移民の契約満了を迎えるが、その後の身の振り方はどうするのか。
帰国するのか、ハワイにとどまるのか。帰国するのであれば、ほどなく再会できるだろうが、そうでないのなら、お前の便りがほしい。
横浜に戻ったら、幕府の時代は終わり、新しい明治の時代になっていて驚いた。
神風楼には異人のほか、新政府の高官もやってくる。父上は彼らとも親しく交わり、新しい時代の行く末を見ている。
横浜の港に捕鯨船が入港するたび、再び乗船したい衝動にかられる。だが、鯨捕りになるのが、私の人生の目的なのかどうかもわからない。
しばらくは横浜にいる。お前の便りを待っている。

明治四年三月 山口仙之助
仙之助編 十四の九

 仙之助の手紙を読み、富三郎は目頭が熱くなるのを感じていた。

 まずは無事で元気でいることがうれしかった。

 手紙が届いたことも奇跡だったが、仙之助が自分に手紙をくれたことが富三郎はうれしくてしかたなかった。しかも文面に別れ際のわだかまりを感じさせるところは微塵もない。
「仙之助……、お前って奴は」

 富三郎はいてもたってもいられなくなった。

 日付は月だけが記されていた。日本語で書かれているので旧暦なのだろうか。新暦とすれば三ヶ月、旧暦であれば二ヶ月を要したことになる。横浜に着いたのがいつだったのか、すぐに書いた手紙なのか、そのあたりのことはよくわからない。

 仙之助に返信を出さなければ。

 捕鯨船の入港がない季節、横浜に直接向かう船は限られていた。あの船員が乗ってきた商船が再び横浜に行かないだろうか。

 富三郎は慌てて、ダウンタウンの表通りに出た。

 左右を見回したが、謎の船員の姿はもうなかった。

 港の方向に向かって富三郎は走った。ヌウアヌ通りの峠の方角に行くはずはない。

 返信を書いていないどころか、自分自身の身の振り方を決めた訳でもなかったが、とりあえず手紙を託す算段をしておきたい。富三郎は必死だった。

 手紙を届けてくれた船員の姿は見つけられないまま、富三郎は港の桟橋に立ち尽くした。

 すると、目の前に停泊している船の甲板にあの船員が立っているではないか。
「ハロー。ハロー」

 相手の名前も聞いていなかった富三郎は、闇雲に大声で叫んだ。

 すると、声に気づいた船員が富三郎のほうを向いて、にやりと笑って手をふっている。
「お前の船は、ホノルルを出港してどこに行く?」
「サンフランシスコ」

 返事を聞いて、富三郎は落胆した。

 肩を落として、桟橋を離れようとした時、ふいに背中を叩かれた。

 船を降りてきた船員が、またにやりと笑っている。
「横浜に手紙を届けたいのか」
「そうだ。でも、お前の船はサンフランシスコに行くのだろう」
「サンフランシスコで荷を積み下ろしたら、また横浜に向かう」
「本当か?」
「船長がそう言っている。手紙があるなら預かっていく。お前への手紙を渡した男の居場所はわかっている」
「出港はいつだ?」
「今夜だ」

仙之助編 十四の十

 富三郎は、直ちに仙之助への手紙を書くことを決意して、港を離れた。

 移民たちの契約終了後、富三郎にも彼らと同じ選択肢が与えられていた。すなわち、このまま帰国するか、ハワイにとどまるか、アメリカに渡航するかのいずれかである。

 ハワイに来てからの日々は、困難な出来事も多く、苦労も多かったが、自分なりにそれらを首尾良く乗り切った自負もあった。仲間の死に遭遇し、労働に慣れない者たちを帰国させるまでが無我夢中だったが、こうして一段落してみると、あらためて異国に来ることができた喜びは大きかった。

 富三郎は身の振り方をまだ決めかねていた。だが、ここで帰国するという選択肢はない、と考えていた。あとはハワイに残るか、アメリカに新天地を求めるかである。

 マムシの市こと、石村市五郎は、契約終了後は、同じマウイのハイク耕地で働く数名の者たちとホノルルに出て仕事を見つけると張り切っていた。

 事故がきっかけで偶然、身につけた料理の腕前で身を立てようと目論んでいるらしい。

 富三郎は、あらためて自分はハワイで何を身につけたのだろうと考えた。

 総代として、移民たちをとりまとめた自負はあるが、ことさらに身を立てるほどの技能が身についた訳ではない。英語も日常の意思の疎通に問題がない程度には上達したが、学校に通うこともなかったので、読み書きはままならず、仙之助ほどの語学力は身についていない。

 帰国しないのなら、まだ多少は勝手のわかるハワイにいた方がいいのかもしれない。

 富三郎は、机の前で逡巡していた。

 遅い昼食を簡単にすませると、思い立ったように筆をとった。

山口仙之助殿
無事に帰国された由、何よりのことと喜んでおります。
ご丁寧な手紙を頂戴し、感激至極にございます。
神風楼の繁盛ぶりも我がことのように嬉しく拝読致しました。
お陰様で、私は達者にしております。早いもので契約満了の日が近づいてきました。
その後は、四三名がハワイでの残留を希望し、四六名がアメリカ渡航を希望し、それぞれに旅券の手配を致しました。
アメリカに渡航を希望する者が多いのは、サンフランシスコで銀の鉱山が見つかり、労働者が求められているとの噂を耳にしたからです。一旗揚げるとみな意気軒昂です。
彼らを見送った後、私もサンフランシスコに渡航する所存です。
彼の地で仙之助殿と再会できるのならば、これほどの喜びはありません。
サンフランシスコに到着したら、また便りを致します。
粂蔵旦那にもよろしくお伝え下さい。

牧野富三郎
仙之助編 十四の十一

 富三郎は、したためた手紙に封をすると、再び港に急いだ。

 ダウンタウンの通りに出ると、強い風が吹いていた。

 帆船の航海にはいい風だ。今夜の出港とは言っていたが、船長の気まぐれで早い出発もあるかもしれない。

 息を切らして埠頭に辿り着くと、あの商船は午前中と同じところに停泊していた。

 富三郎は、中国人船員に名前を聞き忘れていたことを思い出した。

 しかたがない。また大声で叫ぶしか無かった。
「ハロー、ハロー」

 欧米人の船員が甲板に姿をあらわし、怪訝そうな顔で富三郎を見た。
「チャイニーズの船員を呼んでくれ」

 富三郎が叫ぶと、わかったという表情をして船室に姿を消した。

 しばらくして、ようやく、あの船員が甲板に出てきた。
「手紙を持ってきた。横浜の、お前が手紙を受け取ったところに渡してくれ」

 富三郎は、そう言って手紙を渡した。
「大丈夫か」

 不安げに問いただすと、船員は言った。
「大丈夫だ。確かに手紙は預かった。ジン……、ジンプー」
「ジンプーローだ」

 そう返すと、船員は、にやっと笑って言った。
「ジンプーローにはいい女がいる」

 その言葉に富三郎は、手紙は間違いなく届くと確信した。

 粂蔵が再興した神風楼は、船員たちに人気の店になっている。手紙があろうが、なかろうが、彼らは神風楼に行くに違いない。

 富三郎は、記憶の中にある、火事で焼ける前の神風楼を思い出していた。

 繁盛しているのなら、横浜に帰る選択肢もあったのかもしれない。手紙を渡せる機会を失いたくなくて焦って決断したのは、最も困難な道だった。だが、富三郎は、仙之助の手紙の行間に、再び未知なる世界に飛び出したくてうずうずしている彼の本意を読み取っていた。

 ハワイへの渡航を決めた時と同じように、また彼に背中を押された気がしていた。
「サンフランシスコか……」

 富三郎は、思わず空を見上げた。

 そして、独り言をつぶやいた。
「サンフランシスコで、仙之助と一旗揚げるか」

 契約満了後の移民たちにアメリカへの渡航希望者が多いことも、背中を押されたもうひとつの理由だった。サトウキビプランテーションでは稼げる金はたかが知れている。ホノルルよりも、いっそのこと新天地で夢を追いかけたい者が多かったのだ。

仙之助編 十四の十二

 サンフランシスコの繁栄は、一八四八年にカルフォルニアのサクラメント郊外のコロマで金が発見されたことに端を発する。西部開拓史上最大の出来事、カリフォルニアのゴールドラッシュである。金鉱発見のニュースはたちまち世界に知れ渡った。

 発見の翌年、一八四九年に一攫千金を夢見てカリフォルニアに集まった人たちを「フォーティーナイナーズ」と呼ぶ。サンフランシスコの人口は、四八年の千人からわずか一年で二万五千人にまで増えた。

 東部のマサチューセッツ州にいたジョン万次郎もゴールドラッシュの噂に興奮した一人だった。日本に帰国するための資金を稼ぐ好機と考えたのだ。一八五〇年、遅ればせのフォーティーナイナーズとしてカリフォルニアにやって来た。

 一八五〇年までに、容易に採掘できる金は掘り尽くされた。金の供給量の増大により、金の価格が暴落。まもなく熱に浮かされたブームは終焉する。

 だが、ゴールドラッシュによって、未開の地だった西部が注目されたことは歴史を動かした。一八五〇年にカリフォルニアは州となり、アメリカは西海岸のその先にある太平洋に目を向けるようになり、新たな外交政策が始まった。ペリーの黒船来航も、遠因はゴールドラッシュだったことになる。

 カリフォルニアの人口増加は、西部と東部を結ぶ交通網の発展にもつながった。一八五五年には後のパナマ運河につながるパナマ地峡鉄道が開業。一八六九年には大陸横断鉄道が開業した。

 一八七〇年のサンフランシスコは人口十五万人の都市になっていた。

サンフランシスコの港

 ゴールドラッシュの熱を帯びた時代は過去のものだったが、一八五九年に隣接するネバダ州バージニア山脈の東斜面コムストック・ロードという銀鉱山が発見され、再びの興奮がカリフォルニアにももたらされた。

 ハワイの移民たちが聞きつけた噂とは、この銀鉱山である。

 ゴールドラッシュのフォーティーナイナーズたちのように川で砂金を集めて、それが金になるような一攫千金の話ではなく、単に鉱山労働者が求められていたのだが、カリフォルニアと言えばゴールドラッシュが有名だったから、遠いハワイにいた彼らが銀鉱山の話をその再来と考えたとしても無理はない。

 アメリカ本土への日本人移民は、一八六九年に戊辰戦争に敗れた会津藩士たちが、会津藩と商売をしていたジョン・ヘンリー・スネルと共にカリフォルニアに渡った者たちが最初とされる。茶の生産などを行った入植地は、彼らの故郷、会津若松市にちなんで「若松コロニー」と呼ばれた。

 ハワイから渡航した元年者たちは、彼らに続くアメリカの日本人移民ということになる。もっとも契約終了していた彼らは、組織だって行動することはなかった。

 富三郎がサンフランシスコ行きを決めたのは、意気軒昂な彼らに背中を押されたのと同時に、彼らの行く末を案じたこともあった。