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2026年3月8日更新

仙之助編 二十三の十二

 仙之助はヒサの温かい言葉を聞いて、不覚にも涙が溢れそうになった。張り詰めていた気持ちが緩んだのだろう。粂蔵に気取られまいと、仙之助は目をこすった。
 まもなく風呂の支度が出来たと女中が呼びにきた。風呂に入り、浴衣に着替えて人心地つくと、ヒサが夕餉(ゆうげ)のお膳を運んできてくれた。
 夜の帳が下り、神風楼は忙しい時間になっていた。
 座敷には粂蔵の姿もなく、遊女たちのさざめきの合間にトメの艶っぽい声と甲高い笑い声が聞こえていた。ウメコの母親は自分だと思っているのかと、仙之助に問いただした時の笑い声だ。
 ひとりの夕餉になるのかと思っていたら、恥ずかしそうにヒサが言った。
「私もこちらでご一緒してかまいませんか」
「もちろんだよ」
 ヒサが自分のぶんも運んできて、二人並んで箸を取った。
 お椀を開けると、出汁の香りがふわりと立ち上がる。
 仙之助は西洋料理を好んだし、捕鯨船の単調な食生活にもすぐ馴れたが、久しぶりに口にする祖国の味は懐かしかった。
「ヒサは今も勉強を続けているのか」
「はい、宣教師のキダー先生の英語塾に通っております」
 メアリー・E・キダーは、後のフェリス女学院の創始者だった。
「英語を学んで、ヒサは何をしたい?」
仙之助が問いかけると、恥ずかしそうにうつむいて小さな声で答えた。
「仙之助さんのお役にたちとうございます」
「私の?神風楼ではなくて?」
 ヒサは頰を赤らめてさらにうつむいた。
 仙之助はヒサと自分にどこか通じるものを感じていた。
 神風楼があるから仙之助は異国に行けたし、ヒサは英語塾に行ける。お互いにそのことはよくわかっている。それでも神風楼に背を向けてしまう。その庇護から離れたところで何かを成したいと思っている。
 水を得た魚のように神風楼を取り仕切るトメとは違う人間であることを仙之助とヒサはお互いに自覚していた。だが、仙之助の配偶者はトメであり、それは神風楼の繁栄のためには必要な関係であることも、二人はよくわかっていた。
 ヒサは女中に仙之助の布団を敷くように告げて、お膳を二つ重ねて下げていった。
 布団に入った仙之助は、何度も寝返りを打った。疲れているはずなのに眠れない。仙之助の役に立ちたいと告げたヒサの言葉がいつまでも頭から離れなかった。
 うつらうつらして目を覚ましたのが夜明け前だった。神風楼はすっかり静かになっていた。仙之助はひとり起きだして、牛を留め置いた公園に向かった。